第068話 見覚えのある舵
死んだ航路の啓開から九日。第二船団は輸送船十一隻に膨らみ、テッサへ週千四百トン——必要量の全部を届ける目処が、初めて帳簿の上に立った。
商会は中型輸送船を二隻、よその航路から引き抜いて回してきた。月八百万の赤字航路に、さらに船を足す判断を、ウェンディゴ・ローは三日でやってのけた。荷積みの桟橋では、テッサ向けの木箱に保存食と種籾と医薬品が詰められていく。種籾、というのが商人の見立てだった。封鎖が明けたあとの港のことまで、あの女は帳簿に入れている。
効果は数字に出た。テッサの配給は一人一日三百六十グラムで踏みとどまり、闇市のパンは九百crから七百二十crへ下がり始めた。数字は小さい。だが下がり始めた、という事実そのものが入植地の空気を変える。値段が下がると信じられる港では、買い溜めが止まる。買い溜めが止まれば、流通はさらに軽くなる。兵站とは結局、腹より先に、信用を運ぶ仕事だった。
そして、封鎖の経済が軋み始めた。
「封鎖網の配置が変わりました」ツクモが観測図を更新した。「縫航ゲート周辺の哨戒が三個組から二個組へ削減。抽出された戦力は——ここです」
図の上で、死んだ航路の出口に当たる宙域に、新しい熱源の群れが灯った。八隻。これまでの哨戒艇とは艦影の格が違う。武装の重い、海賊団の主力級。中央の一隻は、旧同盟軍の駆逐艦を改装した大型艦だった。
「緋蓮団の本隊と推定します。迂回航路の出口を塞ぎに来ました」
「読みどおりだ」ハルは言った。検問を素通りされる封鎖に意味はない。向こうが本隊を動かした、ということは、迂回航路がそれだけ効いているということだった。「船団の針路は」
「第三経路へ既に変針済み。出口の通過予定を四時間ずらします。ただし本艦は船団から分離し、敵本隊の注意を引く必要があります。輸送船の鈍足では、観測圏からの離脱に四十分を要します」
「……囮役か」
「最適配置です。当艦は逃げ足だけは速いので」
ツクモのその言い方が皮肉なのか仕様なのか、七年経っても誰にも分からないだろうとハルは思った。《送り火》は船団を離れ、わざと熱源管理を一段緩めて、緋蓮団本隊の観測圏を横切った。
反応は教科書どおりに速かった。本隊から二隻が突出して追撃にかかる。突出、といっても無謀な追い方ではない。二隻は互いの支援距離を保ち、本隊の射程の傘から出ない範囲で、扇を絞るように追ってきた。
「牽制射、来ます」
光条が二条、艦首はるか前方を薙いだ。当てる気のない、針路を曲げさせるための射撃。曲げた先に二隻目の射界が待っている、教範どおりの挟み方だった。ヴェインは曲げると見せて曲げず、デブリの濃い面へ艦を滑らせた。
「囮歌、第二声」ツクモが歌を変えた。今度の嘘は、機関の故障だった。《送り火》の機関波に、過負荷の乱れを混ぜて流す。手負いに見える獲物ほど、よく釣れる。
二隻は食いついた。距離が詰まる。詰まらせるだけ詰まらせて、船団が観測圏を抜けた報がツクモから入った瞬間、《送り火》は故障の歌をやめ、本来の加速で振り切った。追撃の二隻は深追いしなかった。支援距離の縁で、ぴたりと止まった。最後まで、規律が欲に勝っていた。
交戦は、それだけだった。砲火の応酬は牽制の数射のみ。被弾はない。四十分の鬼ごっこ、それだけのはずだった。
それだけで終わらなかったのは、ヴェインの手が、追撃の途中で一瞬止まったからだ。
◇
「ヴェイン?」
操舵手は返事をしなかった。彼の目は正面表示の一角、敵旗艦の機動記録に張りついていた。追撃する二隻を指揮していた大型艦——その艦が、こちらの牽制の光条を躱したときの、回避機動の航跡に。
離脱後、安全圏の巡航に入ってから、ヴェインは記録を巻き戻した。一度、二度、三度。同じ十数秒を、何度も。
ハルにも見えるように、彼は航跡を表示に拡大した。
「……これだ。右への回避。見ろ」
「見ている。右に振った」
「振っとらん」ヴェインの声は低かった。「右に振ると見せて、振る直前に主推力を抜いとる。艦尾が慣性で流れて、艦首だけが右を向く。追う側からは右回避に見える。実際の艦の重心は、ほとんど直進しとる。追撃の偏差射撃は、全部、艦のおらん場所へ飛ぶ」
「……見事な舵だ」
「見事すぎる」ヴェインは画面から目を離さずに言った。「この舵は、同盟の駆逐艦教範に載っとらん。教範の右回避は推力を残す。残すと航跡が素直になって、読まれる。だから推力を抜け——そう教えとった男を、俺は一人しか知らん」
ブリッジが静かになった。ヴェインは航跡をもう一度再生し、今度は最後まで止めずに見た。見終えてから、彼はゆっくりと言った。
「俺が教えた舵だ」
「……ヴェイン」
「《グロム》の舵だ」
その艦名を、ハルは初めて聞いた。ヴェインが自分から過去の艦の名を口にしたのは、雇われてからの半年余りで、これが最初だった。
「大戦中、俺が艦長をやっとった駆逐艦だ。同盟軍第十一駆逐隊、《グロム》。この推力抜きの回避は、俺が操舵員と砲術の連中に、嫌がられるまで叩き込んだ。推力を抜けば偏差が外れる。外れた偏差を、敵がどう読み直すかまで読んで撃つ。回避と砲術は裏表だ、と言うてな。……若い時分は、教え方が、しつこかった」
「あの旗艦に、《グロム》の乗員がいると?」
「おる。舵が証拠だ」ヴェインは記録を止めた。「それも、ただ覚えとるだけじゃない。あの精度は、七年間使い込んどる手だ。……そして、あの舵と裏表の砲術を預けとった男の名前なら、俺は思い出すまでもない」
彼は一拍、置いた。七年ぶりに口にする名前の重さを、量るような間だった。
「ガズ・ヒバス。《グロム》の先任掌砲長だ」
ハルは封鎖線の傍受記録を思い出した。緋蓮団。指令系の中心の符丁。軍隊式の哨戒網。艦隊運用を設計できる頭脳。幕僚勤務か、でなければ駆逐艦乗りの実戦を知る者——ヴェイン自身が、そう言っていた。
「緋蓮団の頭目の名は——」
「ああ」ヴェインは頷いた。「ガズ・ヒバス。団の名は、あいつの名から来とる。知っとった。名前だけは、ずっと知っとった。同名の別人だと思うことに——」彼はそこで言葉を切り、言い直した。「思うことに、しとった」
回廊最大の海賊団。三月でテッサを締め上げた封鎖の設計者。その中枢に、ヴェインのかつての部下がいる。少なくとも一人、おそらくはもっと。軍隊式の哨戒網の図面を引いたのは、幕僚勤務を知る人間ではなかった。駆逐艦の先任掌砲長が、艦長に仕込まれた流儀で引いたのだ。
「……俺の部下だった男だ」
ヴェインはそれだけ言うと、操舵席を立ち、ブリッジを出ていった。引き止める者はいなかった。ナナオが何か言いかけて、やめた。医者には、薬の効かない傷の見分けがつく。
通路の途中で、ヴェインはヨルとすれ違った。少女は大男を見上げ、何かを感じ取ったらしく、すれ違ってから振り返った。彼女はまだ、その感じ取ったものに名前をつけられない。つけられないまま、ハルのところへ来て、小さく報告した。
「……ヴェインが、とおくに、いた」
「……ああ」ハルは言った。「遠くにいた。今日は、そっとしておいてやってくれ」
その夜、ヴェインは食堂にも医務室にも現れなかった。自室の灯りだけが、当直表示の上で朝まで点いていた。酒を呑んでいる気配は、なかった。それが良い徴候なのか悪い徴候なのか、ハルには判じかねた。