第069話 グロムの九人
翌日の夜、ナナオが食堂の卓に酒瓶を一本置いた。医務室の棚の奥から出してきた、同盟領の蒸留酒だった。封も切られていない。老軍医は自分の前には湯呑みの茶だけを置き、グラスを一つ、卓の向かいに滑らせた。
「わしは呑まん。呑む阿呆の世話をするのが商売じゃからな」
「誰に呑ませる気だ」
「さあの。呑みたい奴がおったら、の話じゃ」
呼ばれてもいないのに、ヴェインはやって来た。医者の仕掛けた席だと分かっていて、分かった上で座る——そういう座り方だった。グラスに一杯だけ注ぎ、口をつけず、長いこと眺めていた。ハルは少し離れた席で帳簿の端末を開いていた。開いていただけで、数字は一行も進まなかった。
「……百四十三人、おった」
ヴェインは、誰に向けてでもなく話し始めた。
「《グロム》の定員だ。駆逐艦にしては大所帯でな。電子戦の増設区画があったから、その分、人が多かった。新兵も多かった。戦争の終いがけは、どこの艦もそうだ。古株が死んで、子供が補充されてくる」
グラスの中の酒は、まだ減っていない。
「終戦の半年前——第六星系方面の撤退戦で、殿の駆逐隊に回された。船団を逃して、追撃を受け止める役だ。三隻で受けた。《グロム》は二日目に三発もろうた。機関半減、隔壁三枚抜かれて、第二弾庫に火が入った。沈むまでの時間は、計算できた。四十分そこらだ」
「……退艦命令を」
「出した。脱出艇に部下を押し込んで、押し込みきれん奴は隣の艇に走らせて。泣く奴も、命令を聞かん奴もおった。聞かん奴は殴って積んだ」淡々とした、報告書のような語りだった。報告書のようにしか語れないのだろう、とハルは思った。「舵だけは、俺が握っとった。艦が止まれば、追撃の的が脱出艇に移る。だから沈みかけの艦で機動を続けて、的を俺に集めた。脱出艇が散りきるまで、二十六分。あの二十六分より長い時間を、俺はそれから先の人生で知らん」
「……あんたは、どうやって」
「最後の内火艇が一艘、艇庫に引っかかって残っとった。整備不良でな。皮肉なもんだ。整備不良が、俺だけを生かした」
ヴェインはそこで初めてグラスを持ち上げ、しかし呑まずに、また置いた。
「生き残ったのは、三十一人だ」
百四十三引く三十一。ハルは引き算をして、何も言わなかった。引き算の答えを口に出していいのは、引かれた側の人間だけだ。
「あんたは、生きた」ナナオが静かに言った。「殿の舵を握って、部下を散らして、生きた。それは責められることではないぞ」
「責められた」ヴェインは笑いに似たものを口の端に浮かべた。乾いた、温度のないものだった。「撤退の初日、脱出艇を拾わせるために民間の輸送船を一隻、銃で止めて徴発した。航路を変えさせて、二日、漂流域に張りつかせた。船主は積荷の納期を二つ飛ばして、破産した。……三十一人は、それで生きた。終戦になって、その件が戦犯リストに載った。民間船舶への武力強制。判は正しい。俺は確かに、やった。もう一度同じ場面が来ても、やる」
「……部下たちとは」
「会っとらん。一度もだ。戦犯の艦長と一緒におったら、あいつらまで疑われる。再就職の口も閉じる。俺が消えるのが、一番安い」グラスの縁を、指が一度だけなぞった。「消えて、流れて、テネブラエで吊るされかけとったところを、あんたに拾われた。後は知っとるとおりだ」
◇
ハルは端末を卓に置き、別の画面を呼び出した。封鎖線の傍受記録。この数週間、ツクモと二人で積み上げた緋蓮団の通信の山だった。
「ヴェイン。昨日から、これを洗い直していた」
「……通信か」
「通信士には癖が出る。打鍵の間合い、符丁の崩し方、復唱の省き方。教えた人間の癖が、教わった人間に移る。軍で同じ釜の飯を食った通信員は、同じ癖の系統を引く。指紋ほど確かじゃないが、出身部隊くらいは絞れる」ハルは解析図を表示した。「緋蓮団の指令系に乗っている通信員のうち、同盟第十一駆逐隊の通信規約の癖を持つ者が——九人いる」
ヴェインの目が、画面の解析図に落ちた。九つの発信者識別と、それぞれの癖の系統図。彼はそれを一つずつ、ゆっくりとたどった。やがて、解析図のいくつかに、低い声で名前が当てられていった。識別符号ではない。人間の名前だった。
「……こいつは、ムジナだ。復唱を端折って、先任に毎週殴られとった。直っとらんな、七年経っても。……これは、ヤニ屋の打鍵だ。間合いに煙草の癖が出る。生きとったか。……この丁寧なやつは、通信長だろう。新兵に教える字を打つ男だった」
九つのうち、七つに名前がついた。残る二つを、ヴェインは長く見て、首を振った。名前が出ないのではなく、確かめるのが怖い顔だった。彼は画面から手を引き、背もたれに体を預けた。
「三十一人のうち、九人。緋蓮団の指令系の中核に、《グロム》の生き残りが九人おる」彼は天井を見た。「拾ったのは、ガズだ。考えるまでもない。あいつはそういう男だ。終戦直後の同盟兵に職はなかった。あったのは戦犯狩りと、私刑と、難民区画の列だけだ。連合の港じゃ同盟訛りいうだけで仕事を断られた。ガズは食えん奴を見過ごせん。掌砲長のくせに、艦の飯の数をいつも数えとるような男だった。砲術の天才が、飯炊きの帳面を持っとった」
「……それで、海賊か」
「それで、海賊だ。艦隊勤務の経験ごと拾って、食わせるために旗を揚げた。緋蓮団の哨戒網が軍隊式なのは当たり前だ。あれは海賊の真似事をしとる軍隊だ。……笑える話だろう。俺が命懸けで脱出艇に積んだ連中を、ガズが拾って、海賊にした」
ヴェインは、手つかずのグラスをようやく持ち上げ、しかし呑まずに、卓に戻した。
「俺が沈め損ねた連中が、海賊旗の下で飯を食ってる」
その一言だけ、報告書の文体ではなかった。
ハルは何も言えなかった。慰めの言葉は一つも持ち合わせがなく、持ち合わせがあったとしても、使えば嘘になった。帰還命令を中継し損ねて数百隻を置き去りにした男と、部下を生かして戦犯になった男。どちらの七年が重いかを比べることに意味はない。敗者同士の卓に置けるものは、沈黙だけだった。
ナナオも茶を啜るのをやめていた。食堂の換気の音だけが、長いことそこにあった。
音を立てずに、ヨルが卓に近づいてきた。少女は誰の顔も見ずに、給湯器から汲んだ白湯の椀を一つ、ヴェインの前にことりと置いた。ナナオが病人にそうするのを、彼女は何度も見ている。それから何も言わずに、壁際の自分の席に戻った。ヴェインは椀を見下ろし、低く「……すまん」と言った。白湯は、酒と違って減った。
◇
沈黙を破ったのは、ツクモだった。
「艦長。受信があります」
「……商会か」
「いいえ。狭域指向通信。発信源は緋蓮団の勢力圏内。暗号は同盟軍の旧式規約です。解読しました」ツクモは一拍置いた。彼女にしては珍しい、人間めいた間だった。「宛先指定が、あります。読み上げます。——宛先、《グロム》艦長、ヴェイン・コルサク」
ヴェインの背中が、椅子の上で動きを止めた。
「発信者名、ガズ・ヒバス。本文は短文です。会って話したい、中立泊地を指定する、武装は問わない——以上です」
七年間、誰も呼ばなかった肩書きが、海賊の通信に乗って卓まで届いた。ヴェインはゆっくりと立ち上がり、ブリッジへ向かいながら言った。
「……冒頭の呼出符丁を、再生してくれ」
スピーカーから、短い電子音の列が流れた。三短一長、二短。古い、どこの規約集にも載っていない並びだった。ヴェインは目を閉じた。
「総員集合の符丁だ。《グロム》の艦内放送の——俺が毎朝、聞いとった音だ」