第070話 閑話 赤字の航路
ロー商会テネブラエ支所、商隊長執務室。月次決算書は、深夜に届いた。
ウェンディゴ・ローは決算書の頁を、いつもの順で繰った。好調な航路から先に読むのは素人で、彼女は最悪の行から読む。第六星系航路、当月損益、マイナス八百二十万cr。
内訳は見るまでもなく頭に入っていた。護衛費千二百万。迂回航路啓開に伴う追加燃料。沈まなかった代わりに保険でも返ってこない、諸々の細かい出血。対する売上は、封鎖前の契約価格に据え置いた運賃だけだ。テッサの荷受け側に、いまの相場を払う力はない。払える価格で運ぶと決めたのは彼女で、つまりこの八百二十万の赤い数字は、彼女が自分で書いたようなものだった。
通信端末には、中央支社の役員会からの照会が三通たまっていた。文面は三通とも丁寧で、要旨は一語だった。撤退。
彼女は返信の下書きを開き、前回と同じ文章を貼りつけた。
『第六星系航路の維持を継続する。飢えた港は二度と客に戻らない。商いは飢えた港から死ぬ。当該損失は将来航路収益の先行投資として処理されたい』
将来航路収益、という言葉が方便であることは、書いている本人が一番よく知っていた。封鎖が明けたあとのテッサに、先行投資を回収できるほどの購買力が戻る保証はどこにもない。役員会もそれを知っていて、彼女が退かないことも知っていて、だから照会は三通とも、解任動議ではなく照会のままで止まっている。商隊長ウェンディゴ・ローの帳簿は、この航路を除けば回廊で一番黒い。黒字が、彼女の赤字を守っていた。
送信してから、彼女は机の最下段の抽斗を開けた。
中には古い紙の台帳が一冊入っている。電子化もされていない、角の潰れた、大戦初期の配給台帳だった。兵糧封鎖を受けた港の配給所で使われていたもので、頁をめくると、几帳面な細い字が並んでいる。世帯番号、人数、配給量。配給量の数字は頁が進むごとに小さくなり、ある頁から、人数の欄に横線で消された行が交じり始める。
台帳をつけていたのは配給所の手伝いの小娘で、字の癖でそれと分かる。数字の七の横棒が、頁が進むにつれて深く、強く引かれるようになっていく。インクが滲むほどに。誰の字かを、ウェンディゴは誰にも話したことがない。話す必要のあることは、全部この航路の維持で話している。
彼女は台帳を閉じ、抽斗に戻した。感傷の時間は、月にこの数分で足りる。
◇
決算書の次に、彼女は情報部のまとめた市況報を読んだ。商人の網にかかる噂の集計——相場より先に動く、回廊で一番速い情報だ。
その月の市況報には、一つの名前が異例の頻度で現れていた。
葬儀屋。
噂の中身は、出どころによって顔が違った。港湾労働者の噂は言う。黒い艦は同族を喰う。死人の艦を漁って金に換える、縁起の悪い船だ。桟橋で見かけたら指を組め。浄火教団の触れは言う。かの艦は禁制の中枢を蔵する異端である。信徒は接触を避け、目撃は司教座に報告せよ。海賊筋から漏れてくる声は言う。あれは関わるだけ損な相手だ。撃ち合わずに、いつの間にか負かされる。
そして保険組合の月次通達は、こう言った。
『第六星系方面航路における護衛実績の精査に基づき、傭兵登録「葬儀屋」(辺境保安機構準指定業者)が護衛に就く航路の戦争危険担保特約について、料率を二パーセント引き下げる』
畏怖と、憎悪と、信用。三つの違う通貨が、同じ一つの名前に積まれていく。ウェンディゴは料率通達を商会の経理へ回送した。輸送船十数隻分の保険料の二パーセントは、月に七十万crを超える。悪名が、現金の形をし始めていた。
商人は人を見ない、と若い頃の彼女は教えられた。見るのは帳簿だけでいい、と。だがあの男の帳簿は妙だった。面談の席で、護衛計画の穴を三つ指摘した傭兵を、彼女は初めて見た。自分の報酬の話を一度もせず、雇い主の赤字を計算した顔で黙っていた傭兵も、初めて見た。
死人の艦を狩る男が、生きた港の算盤を弾く。その不釣り合いの理由を、彼女は詮索しないことに決めていた。商人が買うのは過去ではなく、履行だ。
◇
最後の一件が、決裁箱に残っていた。
葬儀屋からの提案書——封鎖側の兵站推計と、それを枯らすための行動計画。四時間で「続けて」と打ち返した、あの文書の正式な決裁版だった。彼女は今夜、それを最初から読み直した。
封鎖網十四隻、維持費月二千万cr超。海賊の収入では賄えない差額、月八百万以上。よって帳簿の外に補給源が存在する。それを特定し、断つ。文章は事務的で、数字は保守的に見積もられ、自分たちの戦果を膨らませる形容詞が一つもなかった。軍の兵站文書の書き方だ、と彼女は思った。それも、優秀な方の。
兵站を枯らすとはどういうことか、提案書は美化していなかった。封鎖側の人間が飢える、と一行で書いてあった。その一行を消さずに出してきたことが、彼女がこの男を信用する理由の、おそらく一番深いところだった。飢えの値段を知らない人間に、飢えの算盤は預けられない。
ウェンディゴ・ローは決裁欄に署名した。
それから少し考え、署名の横に、自分の手で一行を書き足した。役員会への説明用でも、記録用でもない。強いて言えば、角の潰れた台帳をつけていた小娘への、三十数年越しの報告のようなものだった。
『飢えさせ方は、知っている人間に任せる』
端末を閉じると、窓の外でテネブラエ港の管制灯が瞬いていた。桟橋の端には、あの黒い艦が音もなく係留されている。葬儀屋の艦は、明朝もまた、飢えた港への航路に就く。