第081話 五番目の星
封鎖が解けて十日、テネブラエ港は束の間の活況の中にあった。
再開した航路に荷が戻り、桟橋の荷揚げ機は順番待ちで唸り、酒場には釈放されたばかりの若い顔と、彼らを雇い入れた商会の古い顔が同じ卓で黙って飲んでいた。景気のいい音のする港で、ハルの帳簿だけが、いつもどおり静かだった。
撃破数、九。残高、約四千三十万cr。保険と港湾使用料、月九十万。
そして最後の行に、ひと月前から消えない一行があった。中枢杭、在庫零。市場在庫、なし。主兵装のない葬儀屋は、鋏のない床屋と同じだった。看板だけは、回廊中に知られているのだが。
呼び出し状は、ギルドの窓口で受け取った。月例の保険料を納めに行った朝、ミミナが受領印と一緒に、分署の封緘つきの端末札を滑らせて寄越したのだ。
「分署長から。今朝いちばんの便で来てた」受付は声を一段落とした。「中身は知らないけど、封緘の等級は知ってる。この等級の呼び出しを受けて、桟橋から無事に帰ってきた傭兵を、あたしは三人しか知らないわよ」
「三人は帰ってきたんだな」
「……あんたのそういうところ、嫌いじゃないけど、心配にはなるわね」ミミナは帳簿に視線を戻した。「行くなら、燃料の前払いを済ませてから行きなさい。戻れない事情ができる前に」
冗談の形をした実務の忠告だった。ハルは言われたとおり前払いを済ませてから、分署へ歩いた。
カンプは執務室の星図を点けて、回廊の数珠の五番目の珠を指で叩いた。
「外縁回廊第五星系。統治府と分離派の内戦が、三年目に入った」
「聞いている。幹線が細っていると」
「細いんじゃない。塞がったんだ、先月からは事実上な」分署長は料率表を投げて寄越した。「第五を迂回する荷は航路料が二・八倍につく。お前が苦労して開けた第六への航路も、第五の結び目が腐れば一緒に腐る。封鎖を一つ解いたら、隣の星系で戦争が育ってた。辺境ってのはそういう出来の庭だ」
「保安機構が出るのか」
「『航路保全』の名目で介入部隊を編成する。フリゲート六、武装商船八。これでも分署三つの巾着をはたいた数字だ」
「正規艦隊は出ないのか」
「中央に出す気があれば、二年前に出てる」カンプは星図の光量を落とした。「正規の一個戦隊を半年動かせば十二億から十五億。介入部隊なら、その一割で『やっている』という顔ができる。お前を名指しで呼ぶ理由も同じだ——安くて、確実で、沈んでも議会で誰も質問しない。気を悪くするなよ。この机から出せる最大級の賛辞だ」
「慣れてる」
分署長は決裁端末を回して寄越した。「お前にも声が掛かった。契約金一千五百万、着手金三百万、残額は任務完了時。戦功加算は別枠。ただし戦闘宙域での損耗は自己負担だ」
ハルは契約書を最後の行まで読んでから、顔を上げた。
「条件が一つある。内戦そのものには関わらない。請けるのは航路の保全と、還らず艦だ。統治府の旗のためにも、分離派の旗のためにも撃たない」
「書いておいてやるよ。法務が好きそうな文言だ」カンプは判を取り上げ、押す前に一度だけ手を止めた。「ただな、葬儀屋。戦場へ行って戦争に関わらない方法があるなら、俺に教えてくれ。二十年この机に座って、まだ見つからん」
判は、乾いた音で落ちた。
「それと、業務連絡だ」
カンプは席を立ち、保管庫の在庫端末を呼び出した。表示された品目を見て、ハルは黙った。
中枢杭。四本。
「先月、第四星系の検問で密輸船を挙げた。積荷がこれだ。押収品の特例放出——装備不良の業者を戦地へ送って死なれると、監査で削られるのは俺の予算でな。評価額は一本二百八十万、四本で一千百二十万。市価よりは良心的だろう、市場があればの話だが」
「……出どころは」
「軍の解体場から流れた横流し品だ。そこまでは珍しくもない」分署長の声が、役人の層から一段だけ下りた。「珍しいのは仕向先だ。名義は三つの回収会社。三つとも登記だけのペーパーで、辿ると全部、消える。買値は一本四百万。相場の倍近い金を払って、杭と管制索と培養系の保守部材を、一年がかりで買い漁ってる金主がどこかにいる」
「撃つためじゃないな」ハルは言った。「杭を四百万で買って撃てば、賞金の半分が消える。採算が合わない」
「合わんな。だから嫌なんだ」カンプは端末を消した。「撃つためじゃなく——使うために集めてる。動かない艦を動かす支度、って噂の続きだ。公式には、俺は今の話をしていない」
一千百二十万の振替を、ハルはその場で承認した。帳簿の在庫の行がひと月ぶりに零でなくなり、残高の行が三千百万台まで沈んだ。安心と不安が同じ伝票で来るのは、この稼業ではいつものことだった。
艦に戻ると、依頼書は先に回覧されていた。
ヴェインは食堂の卓で書類を一瞥し、契約条項でも戦力表でもなく、星系の名前のところで目を止めて、それきり黙った。内戦。旧同盟系の入植地。敗者の戦争の臭いを、この男は書類の紙質からでも嗅ぎ当てる。
「……第五か」と、それだけ言った。
「ああ」
「了解。舵は、いつでも」
医務室では、ナナオがヨルの定期検診を終えるところだった。老軍医は聴診器を畳みながら、診断書ではなくハルの顔に向かって所見を言った。
「身体は問題ないんじゃ。問題は行き先よ。内戦の宙域は大戦の主戦場跡じゃ、還らず艦の『声』が濃い。この子の耳には、騒がしい街に窓を開けて住むようなもんでな。……耳栓の処方は、わしの薬棚にはないんじゃ」
「行かない選択肢は、もう検討済みか」
「しとらんよ。この艦が稼がんと、この子の飯も薬も買えん。それが答えじゃ」老軍医は薬棚の在庫表を繰った。「第五には、わしも大戦中に三月おった。野戦病院船でな。あの星系の残骸の海は、墓場というより、片づけ損ねた戦場そのものじゃ。掘れば弾が出る。弾が出るから、戦争がやめられん。……麻酔薬を倍積んでいく。わしの経験則じゃ」
ヨルは診察台の縁に座って、二人の会話を順番に見ていた。それから、ハルに訊いた。
「いくの?」
「行く。仕事だ」
「じゃあ、わたしも、いく」ヨルは診察台から降りた。「きこえても、きかない。やくそく、する。……でも、きこえたことは、いう。それが、ほうこく」
報告、という言葉の使い方を、彼女はこの艦で覚えた。それから少し間を置いて、ヨルは続けた。
「せんそうって、まだ、あるの? おわった、って、みんな、いうのに」
「終わったことになってるだけだ。終わってない場所が、まだある」
「……だれが、おわらせるの」
答えの持ち合わせがなく、ハルは「それを決めるのも仕事のうちだ」とだけ言った。誤魔化しだと、口に出した端から分かる答えだった。ヨルは頷いて、それ以上は訊かなかった。訊かない、という形の理解を、彼女は最近覚えつつある。
ナナオが処方箋の代わりに溜息をひとつ書いて、診察は終わった。
出航前夜、ブリッジで航路をツクモに入力していると、スピーカーの声が言った。
「依頼内容を解析しました。航路保全、艦隊行動の支援、敵性自律艦の排除。——戦争です、艦長。私の得意分野です」
平坦な、いつもの声だった。いつもの声のはずだった。得意分野、という語をこの艦の中枢が使うとき、それは謙遜でも誇張でもなく、ただの仕様の申告であることを、ハルは知っている。知っていて、その温度のなさが、今夜に限って妙に長く耳に残った。
「……ツクモ」
「はい、艦長」
「いや。出航手順を進めてくれ」
「了解しました」
消灯前のブリッジを出る間際、ハルは一度だけ振り返った。
「ツクモ。第五の宙域に、入ったことはあるか」
「私の航海記録のうち、開示可能なのは艦長の乗艦以降のものだけです」と、声は平坦に答えた。「それ以前の記録は、封緘されています。私自身に対しても、です」
「……誰が封緘した」
「不明です。古い話です、艦長。航海に支障はありません」
支障はない、と機械は言い、その言い方が答えになっていないことには、機械も人間も触れなかった。
翌朝〇六〇〇、《送り火》はテネブラエ港を離れた。
縫航ゲートの環が前方で点り、五番目の星の座標が航路図に灯る。終わったことになっている戦争の宙域へ、終わった戦争を狩り続けてきた黒い艦が、静かに舳先を向けた。