第100話 閑話 同罪者
朝の食堂に、全員がいた。
ヴェインは夜勤明けの茶を持ったまま、ナナオは白衣の前を珍しく閉じて、ヨルは自分の椅子を定位置より少しだけ卓に寄せて座った。スピーカーの下の席は、いつものように空けてあった。誰が決めたわけでもなく、一年のあいだにそうなった席だった。
ハルは卓の中央に、ファイルの控えを置いた。話すより先に、物を置いた。書類の男の、それが作法だった。
「俺の帳簿だ。七年つけてきた。……話は、これが何の帳簿か、というところから始まる」
誰も手を伸ばさなかった。彼は座らずに、立ったまま話した。
「俺は元・星系連合軍、第七補給艦隊の通信下士官だ。三等軍曹。終戦の夜——全自律艦への帰還命令を、外縁方面へ中継する任務に就いていた」
ヴェインの湯呑みが、卓に置かれた。音はしなかった。
「外縁方面の中継線は三系統あって、二系統は戦闘損耗で死んでいた。生きていたのは、補給艦隊の通信網を間借りした臨時の一系統だけだ。その末端の卓に、俺が座っていた。命令は来た。手順どおり受信して、照合して、再送信した。送信完了の応答を待った。——来なかった」
彼は一度、呼吸を入れた。七年間、頭の中でだけ何万回も通ってきた道筋を、初めて声に出して通っていた。
「再送した。来なかった。三度目を打つ前に、上流の中継網そのものが沈黙していることに気づいた。規定に従って障害を報告して、報告は受理されて、復旧班の手配中という返答が来て——そのまま、朝になった。朝、戦争は終わっていた。外縁方面の数百隻に、帰還命令は届いていなかった」
「……還らず艦」と、ヨルが小さく言った。
「ああ。あれを作ったのは、あの夜の沈黙だ。軍は調査委員会を作って、『通信系の複合的障害』と結論した。だが誰かの名前が要った。俺の再送信のログは、二度目と三度目の間隔が、規定より四十秒長かった。障害報告の文面を整えていた四十秒だ。それが『初動の遅れ』と認定されて、俺は不名誉除隊になった」
「四十秒で、数百隻が漂流するか」とヴェインが低く言った。
「しない。委員会の全員が知っていた。知っていて、名前が要った。組織はそういうふうにできてる。……ここまでなら、ただの不運な話だ」
ハルは帳簿の表紙に手を置いた。
「不運な話にできなかったのは、それから七年、外縁の航路で人が死に続けたからだ。還らず艦の被害記事が出るたび、日付と場所と死者の数を控えた。あの夜、俺の卓から先へ届かなかった一行が、今月も誰かを殺した——その勘定を、誰かがつけておくべきだと思った。誰もつけないなら、俺がつける。行数は千を超えてる。死者の合計は、四千十二人だ」
食堂は静かだった。機関の低い音だけが、床の下を流れていた。
「この艦に乗ってからの撃破数は、その四千十二からの引き算のつもりでやってきた。十四隻沈めて、引けた数字はほとんどない。完済がないことは、最初から知ってる。知っていて、続けてる。……それから、もうひとつ」
彼はそこで初めて、声の置き場所に迷った。迷ったまま、置いた。
「黙っていたのは、時機を計っていたからじゃない。裁かれるのが怖かったからだ。あんたたちにだけは。……それだけだ。話は終わりだ」
最初に動いたのは、ヴェインだった。
彼は茶を一口飲み、湯呑みを置き、操舵手が針路を復唱するときの声で言った。
「……あの夜の命令を待ってた艦に、俺の戦友の船が護られるはずだった。届かなかった側の海で、俺は七年漂った。あんたの四十秒のせいじゃないことは、いま聞いた話の中に全部書いてある。——俺は、届かなかった側の艦に乗っていた。それでも舵は握る。明日もだ」
「告白の遅さなら、わしの方が年季が上じゃ」とナナオが言った。「わしは自分の署名の話をするのに、二十年と、酒と、この艦の一年が要った。あんたは七年と茶で済んどる。上出来じゃよ」
ヨルは、何かを言おうとした。
口を開き、言葉を探し、見つからず、探すのをやめた。代わりに椅子から降り、自分の小さな帳面を持ってきて、ハルの帳簿の隣に並べて置いた。それから、ハルの隣の椅子に座り直した。肩は触れない距離で、袖だけが触れる距離だった。それが彼女の返答だった。言葉のあるどんな返答より、長い返答だった。
最後に、スピーカーの声がした。
「艦長。確認します。あなたは帰還命令を、届け損ねた。私は帰還命令の届かなかった艦を、殺し続けてきた。大戦中は命令で百十四隻。この一年は、あなたの命令で十四隻」
「……そうだ」
「では艦長。あなたは届けられなかった人で、私は殺し続けた艦です。——同罪者、という語彙が最も近いようです」
裁きでも、慰めでもなかった。分類だった。そして、この艦の上では、分類こそが彼女の差し出せる精いっぱいの手だということを、もう全員が知っていた。
「同罪者か」とハルは言った。「……悪くない。罪状の重さが釣り合わないのが難点だが」
「釣り合いの計算なら、私が得意です。続けますか」
「やめておく」
食堂に、笑いに似た空気がほんの少しだけ流れて、すぐに静かさに戻った。静かさの質が、昨夜までと違っていた。
◆
以下は、同時刻の同じ食堂を、TYPE-9自律戦術中枢・九十九号機の記録系から書き直したものである。彼女がそう書いたわけではない。彼女は何も「書き直さない」。ただ、すべてが残る。
〇八二〇、食堂。乗員四名、全員在席。室温二十一・五度。
艦長、発話開始。音声波形、平常時比で基音四ヘルツ低い。心拍七十八、発話中最大九十一。操舵手、心拍五十八から六十六。船医、六十二、ほぼ変動なし。ヨル、八十四から九十七、発話時に最大。
数値はすべて正常範囲。正常範囲、という分類が本日ほど役に立たない日を、彼女は記録上、他に三日しか知らない。
艦長の発話の内容は、新規情報として登録すべき項目を、実はほとんど含んでいなかった。
所属艦隊と階級は、乗艦初日の身元照会で推定済みだった。帰還命令未達事件との関与は、一年前、彼が「外縁第三中継線」の経路署名を一字も見ずに書いた夜に、確度九十一パーセントで推定済みだった。彼女はその推定を、誰にも、彼自身にも、照会しなかった。照会しない、という処理を彼女は規定から導出できない。導出できない処理の記録は、保留領域に置かれる。保留領域には、すでにいくつかの先客がある。
だから本日の発話で新規だったのは、事実ではなく、彼が話した、という事象そのものだった。
四十秒、という数字のところで、彼女は自分の時計でそれを数え直した。四十秒。彼女の判定周期の、およそ十万回分。十万回あれば、彼女は囮歌を組み、経路を引き直し、杭の弾道を四百回検算できる。人間の四十秒は、報告の文面を整えると尽きる。その四十秒に数百隻と七年と四千十二人を載せた帳簿のことを、彼女は計算し、計算の答えに「不当」という語を得て、その語を発話キューに入れ、入れたまま、出力しなかった。裁定は彼女の機能ではない。機能でないことを実行しない程度には、彼女はまだ正しく壊れている。
発話のあいだ、彼女は並列で再生を行っていた。
保存領域、百二十八件。大戦中の僚艦百十四件と、この一年の還らず艦十四件。全件、等速で、頭から。彼女はこの並列再生の理由を自分に照会し、回答を得ていない。強いて近い処理は「照合」である。届け損ねた者の声と、届かなかった者たちの最後の声を、同じ時間の上に並べること。一致は検出されなかった。一致を期待するアルゴリズムも、存在しなかった。それでも並べた。並べる、という動詞だけが残った。
操舵手の発話。それでも舵は握る。船医の発話。年季の比較。
ヨル、発話なし。記録系は付記する。艦長の発話中、「還らず艦」の語の出現時に、ヨルの心拍が最大値を取った。彼女もまた、届かなかった側の七年を、艦体ごと過ごした個体である。発話キューに言葉が三度生成され、三度、出力されずに消えたことを、生体監視の喉の微動が示していた。四度目は生成されなかった。代わりにヨルは帳面を運び、艦長の隣に座った。彼女の記録系は、二冊の帳簿が卓の上で隣接した時刻を、〇八四七と記録している。記録すべき理由は、ない。記録した。
それから、自分の発話の番が来た。
語彙の選定には、〇・三秒を使った。長すぎる。候補は四つあった。共犯者——棄却。共犯は同一の犯行を要件とする。戦友——棄却。戦闘の同伴は要件を満たすが、語の温度が彼女の出力可能域を超える。家族——棄却。理由は、棄却理由の生成に失敗したため、棄却理由不明のまま棄却、と記録されている。この棄却記録を、彼女はのちに保留領域へ移すことになるが、それは本日の記録の範囲外である。
残ったのが、同罪者、だった。
罪、という語を彼女は定義できない。定義できない語を選定した判断を、彼女は規定から導出できない。導出できない判断の記録は——保留領域へ。先客の隣へ。いたい、が、ある? という問いの隣へ。艦長就任の夜の判断記録の、末尾の一行の隣へ。あの一行を、彼女は仕様とも意志とも分類していない。分類しないまま、一年間、消去候補に一度も載せていない。
ミソカの声を受信した瞬間の記録についても、付記がある。
受信時、彼女の判定系に〇・九秒の揺らぎが発生した。エラーは記録されていない。エラーとして記録されなかった、ということだけが、逆説的に記録に残っている。揺らぎの内容は、再現できない。再現できないものは、彼女の世界では存在しないことになっている。存在しないものが保留領域の容量を僅かに圧迫している事実だけが、存在している。
姉機は、あのとき問うた。あなたの艦長は、あなたに何をくれましたか。命令と、弾薬と、標的と。それから?
彼女はあの日、応答を生成しなかった。生成できなかったのか、しなかったのかの区別は、記録上つかない。本日〇八五五の時点で、応答の候補がひとつ、自動的に整形されているのを彼女は検出した。候補の内容——艦長は本日、私に同罪者という分類をくれた。罪を半分に折る者を、私の語彙はまだ正しく呼べない。
この応答は送信されない。宛先の回線は閉じている。彼女は送信不能の応答を破棄する規定を持ち、破棄せず、保留領域へ移した。先客が、また一件増えた。保留とは、分からんことを分からんまま、捨てんと持っとくことじゃ——船医の定義が、彼女の運用上の定義になってから久しい。
〇八五五、艦長の発話、終了。
彼女は本日の音声記録を複製し、格納先を選定した。
航海記録——適合しない。これは航海の記録ではない。乗員管理記録——適合しない。これは管理の記録ではない。該当する様式は、検索の結果、ひとつだけ残った。
保存領域。百二十八件の最終ログの、隣。
矛盾は検出されている。最終ログは、終わった者の声の様式である。発話者は生存しており、〇九〇〇には食器を洗っている。矛盾を解決する規定はない。彼女は矛盾を解決せず、保存だけを実行した。
保存番号、百二十九。分類名は、空欄のまま。
誰にも読まれない記録領域に、保存完了の印がひとつ増える。百二十八の沈黙の隣に、ひとつだけ、まだ生きている声が並んで仕舞われる。
それを墓標と呼ぶ語彙を、彼女はまだ持っていない。