第101話 認定
シネレオ港からテネブラエ港まで、縫航ゲートを二つ跨いで四日。
告白の翌朝に始まった帰投の航海を、《送り火》の乗員は全員、何も変わらなかった顔で過ごした。ヴェインは当直明けに茶を二人分淹れ、片方を黙ってハルの卓に置いた。ナナオは医務室の棚卸しを三日かけてやり直し、ヨルは自分の帳面に小さな数字を書き足した。ツクモは定時報告を、定時に上げた。
「航海記録、異常なし。本日の特記事項は、ありません」
「……そうか」
特記事項なら、出航前の朝に全部済んでいた。七年の帳簿と、四千十二の数字と、裁かれるのが怖かった、という一言。誰もそれに触れず、触れないことを誰も気に病まなかった。変わらないふりは、この艦の四人と一機が選べるうちで、いちばん不器用で、いちばん正確な返答だった。変わったのは沈黙の質だけで、質は計器に映らない。
二日目の夜、食堂で茶を注ぎながら、ヴェインが一度だけ言った。
「……荷を下ろした顔は、してないな」
「下ろしてない。置き場所を変えただけだ」
「それでいい。下ろした荷は、人に踏まれる」
会話はそれで終わり、湯呑みが二つ、静かに空になった。
三日目、ゲート待機の列の中で、ハルは受注済みの案件票を読み返した。標的、還らず艦二隻。連携して商船航路を襲う、囮と伏撃の組。受託したのはシネレオ出航の朝で、後で知ったことだが、それは外縁回廊の賞金台帳が凍結される四時間前だった。四時間ずれていれば、この依頼票は存在しなかった。仕事というものは、いつもそういう細い橋を渡って手元に来る。
「艦長」とツクモが言った。「ゲート管制の通信量が平常の三倍です。軍用の優先符号が多数。回廊全域で、何かが動員されています」
「内戦の後始末にしては大きいな」
「後始末ではないと推定します。後始末は、艦隊を必要としません」
彼女の推定は、入港して三十分で公報の形になった。
第三〇四日、テネブラエ港。
管制の応答が、いつもより半拍遅かった。入港待機の列に軍艦が割り込み、民間航路の窓が削られている。第二桟橋には連合の駆逐艦が二隻と補給艦が一隻、灯りを落として並んでいた。戦時中は見飽きて、戦後は見なくなった景色だった。
「動員の旗が出とるの」舷窓を覗いたナナオが言った。「部分動員。予備役の招集と、民間船の徴用予告。……懐かしくもない貼り紙じゃ」
「ぐんかん、いっぱい」とヨルが言った。「でも、うた、うたってない。だまってる、ふね」
「人の乗ってる船は、歌わない」とハルは言った。「歌い続けるのは、置いていかれた方だけだ」
ヨルは頷いて、それを自分の帳面のどこかに仕舞ったようだった。
傭兵ギルド支部は、人だかりになっていた。
掲示板の還らず艦案件が、軒並み同じ判で潰されている。軍管轄へ移管、民間受注停止。小型から大型まで、賞金の数字の上に同じ灰色の帯が引かれていた。人だかりは判を読んでは散り、散ってはまた別の誰かが読みに来た。
「飯の種が、一晩で公文書になりやがった」と、古い耐圧服の男が誰にともなく言った。「七年ほっといて、今さら国の敵かよ。死んだ連中は民間の死人で、これからは戦死者か」
「戦死者の方が、補償の桁がいい」と別の声が応じた。「死んだ後で出世できるなら、うちの兄貴も今ごろ少尉だ」
笑う者はいなかった。誰も答えず、答えの代わりに、酒場の方へ流れていく足音だけが増えた。葬儀屋稼業は死亡率が突出して高い代わりに、実入りだけはよかった。その実入りが今朝、紙一枚で消えた。残ったのは死亡率の記憶と、行き場のない腕だけだ。動員の貼り紙は、そういう腕を拾うためにあるのかもしれなかった——その考えを、ハルは考えた端から疑った。物事の順序が、綺麗に揃いすぎている。
窓口で、ミミナが顔を上げた。
「おかえり。生きてたわね」
「公報を見せてくれ」
「読むと思った」
端末に公報が出た。——星系連合公報、布告第七二一号。組織的に行動する無主自律艦の集団、通称「死者の艦隊」を、星系連合の安全に対する脅威と認定する。これに伴い外縁回廊全域に部分動員を布告し、無主自律艦への対処の一切を軍の管轄とする。
七年間、誰も本気で数えなかったものに、「敵」という公式の名がついた。通称、死者の艦隊。辺境の酒場で生まれた言葉が、中央の公文書に楷書で据えられている。死者四千十二人のあいだ脅威でなかったものが、群れて初めて脅威になった。認定の遅さと、認定の速さが、同じ一枚の紙の上にあった。
ハルは布告を末尾まで読んだ。起案部署の欄。参謀本部特務局。
方面軍でも、保安委員会でもない。聞いたことのない局の名を、彼はなぜか二度読んだ。二度読む理由は説明できなかった。書類で七年食ってきた男の、指先だけの違和感だった。指先は理由を出さない。出さないまま、覚えている。
「あなたが受けてた二隻の案件は生きてる」とミミナは言った。「既契約は凍結の対象外。……それが最後の民間案件になるかもね。当分は、なのか、ずっとなのかは、知らないけど」
「台帳ごと凍結か」
「賞金稼業は全員お休み。等級だけ立派な失業者が、今この支部に四十人。みんな、行き先のない殺気を持て余してる」彼女は判の朱を拭き、声を半段落とした。「それと、伝言。連合の士官があなたを探してる。階級は大佐。名簿の『葬儀屋』宛じゃなくて——艦長、アマノ・ハル、と名指しで」
「用件は」
「言わなかった。言わない用件ほど、重いのよ」
保安機構分署で、カンプは決裁箱を二つ抱えていた。
「お前の獲物が国有化された」と、分署長は顔も上げずに言った。「台帳は今朝付で凍結。準指定の直接契約も新規は停止だ。機構は当面、軍の下請けの、そのまた下請けをやる」
「分署の仕事は減りますか」
「増えるんだよ。軍ってのは治安をやらん。撃つだけだ。撃った後の港の不機嫌と、職を失った傭兵の溜まり場と、徴用で船を取られた船主の恨み言——全部こっちに来る」判がひとつ、乱暴に押された。「七年放っておいて、群れた途端に脅威認定ときた。数が揃うのを待ってたような手際だ、とは、公式には言わんがな」
「聞かなかったことにします」
「そうしろ。……お前はどうする。獲物を国に取られた葬儀屋は、何で食う」
「既契約が一件残っています。その先は、まだ決めていません」
「決める前に来る話が、あるかもしれんぞ」カンプは初めて顔を上げた。「軍の士官が、うちにもお前の照会をかけてきた。経歴、戦績、契約履歴。……照会の書式が、妙に丁寧だった。丁寧な書式ってのはな、欲しいものが決まってる人間が書くんだ」
分署を出ると、夕方の鐘が鳴っていた。
港の戦没者の壁の前を通った。刻まれた名前は七年前から増えないのに、壁の前で足を止める人間が、今日は妙に多かった。動員の貼り紙は、生きている者に死んだ者の顔を思い出させる。壁の端で、老婆がひとり、名前のひとつを布で拭いていた。布は乾いていて、名前は最初から汚れていなかった。
ハルは歩調を変えずに通り過ぎた。四千十二の名前は、どの壁にも刻まれていない。刻む壁を持たない数字を、彼は帳簿で持ち歩いている。それが彼の壁だった。
第三桟橋。
係留灯の下、《送り火》の舷梯の手前に、人影がひとつ立っていた。
軍の正装だった。参謀飾緒、大佐の階級章。歳は五十をいくつか越えたあたりで、姿勢に飾りがなかった。副官も護衛も連れず、桟橋の燈の真下という、いちばん目立つ場所に黙って立っている。隠れる気のない立ち方は、それ自体がひとつの名刺だった。男は艦を見上げていた。物見高い者が廃艦を眺める目ではなく、艦を知る者が艦を測る目だった。喫水を見て、外皮の継ぎを見て、それから艦首の杭の発射筒の位置を、正確に見た。
ハルの足が、桟橋の半ばで止まった。
七年経っていた。階級章はひとつ重くなり、髪には灰色が増えていた。それでも、後ろ姿の角度だけで分かる男だった。分かってしまうことが、足を止めた理由の半分だった。残りの半分は、まだ言葉になっていなかった。