第104話 二隻

 第三〇八日、第四星系外縁、旧護送船団航路。
 航路標識の死んだ宙域に、遭難信号がひとつ、規則正しく流れていた。旧同盟の民間書式。機関故障、漂流中、乗員十二名、救助求む。四年間、その信号に針路を寄せた商船が四隻、戻らなかった。死者十九名。信号の主は旧同盟の武装改修輸送艦で、本人はおそらく、嘘をついているつもりすらない。
「ふたつ、いる」と、聴音席のヨルが言った。ナナオが隣で計時している。「うそをつくこえと、だまって、まってるこえ。うそのこえは、おおきい。まってるこえは、ちいさくて……つめたい」
「冷たい、というのは」
「ねらってる、こえ」
 待っている方が、哨戒駆逐艦。残骸帯の影、遭難信号から十一光秒の位置。獲物が囮に寄った瞬間に、横腹を取る配置だった。
 彼我の数字は出ている。駆逐艦の主砲は《送り火》の外皮を二斉射で抜く。輸送艦の改修武装でも、掠れば数百万の修理費が立つ。こちらの杭は二本、射程は近接のみ。正面から撃ち合う選択肢は、最初から盤面に載っていなかった。いつも通りだ。
「囮歌、第一声を返します」とツクモが言った。「遭難信号に対し、救助に向かう老朽貨物船を演じます」
 偽装信号が流れ、輸送艦の「遭難」が嬉しそうに詳細を歌い始め——そこで、予定と違うことが起きた。
「艦長。駆逐艦側の応答が変わりました。私の囮歌への照合要求です。……棄却されました。あれは、私の歌を疑っています」
「疑う?」
「貨物船の機関波形と、応答遅延の癖の不一致を突かれました。過去にこの歌で沈んだ個体の学習が、群れを経由して共有されている可能性が高い」
 単独で漂っていた頃の還らず艦は、疑うことをしなかった。最後の命令を守るだけの艦に、疑いは要らないからだ。集められ、繋がれ、学習を回された艦は、疑うことを覚える。撃つ前から、これは群れとの戦いだった。
「囮歌が通らないなら、次善案を提示します。実在の民間船を一隻、当該航路に誘導し——」
「却下だ」
「却下を予測していました。では艦長、ご決断を。残る選択肢は撤退と、あなたがまだ提示していない案の二つです」
 ハルは戦域図を見ていた。囮と伏撃。目と牙。二隻を繋いでいるのは、十一光秒を跨ぐ細い定時通信——戦術連接の中継リンクだ。
「ヴェイン。同盟の戦隊リンクの仕様は」
「……D級の連接なら、握ってた」操舵手は記憶を確かめる間も取らなかった。「鍵が定時で回る。更新の往復が三回続けて落ちると、回線は相手を汚染と見なして、自分から切れる。敵に乗っ取られた味方に艦隊を食わせないための、安全側に倒す設計だ。俺の艦でも、そうだった」
「鍵更新の周期は観測済みです」とツクモ。「次の更新まで、十七分」
「妨害は撃たない。撃てば気取られる」ハルは手順を口に出して組み立てた。「更新の往復にだけ、薄い遅延を差し込む。残骸帯の反射を使って、経路を一跳ねさせるだけでいい。通信は殺すな。遅らせろ。三回」
「了解しました。……艦長。この手順は、通信を生かしたまま、繋がりだけを殺します」
「知ってる」
 知っている、という言葉の中身を、艦の全員が知っていた。七年前、中継網の沈黙が数百隻を孤児にした。その沈黙の前に座っていた男が、今夜は自分の手で、二隻の繋ぎを断って孤児にする。手順は完璧だった。完璧であることが、いちばん澱んだ。
 一回目の鍵更新が、〇・八秒遅れて失敗した。二回目、失敗。十七分後の三回目が落ちた瞬間、十一光秒の糸は音もなく切れた。
「連接、遮断を確認。両艦、単独行動に移行」
 駆逐艦は規定通りに動いた。リンク喪失時の合流手順——集合座標への移動。観測済みの座標系、予測済みの針路。残骸帯の縁を回るその道筋の途中に、《送り火》は推進を切って浮かんでいた。
「相対距離八百……六百……」
「舵、もらう」とヴェインが言った。
 残骸の影から影へ、慣性だけの滑走。駆逐艦の警戒走査が頭上を二度通り、二度とも残骸の鉄を読んで戻った。四百。三百。杭の有効圏。
「艦長、ご決断を」
「撃て」
 第一射。中枢杭は哨戒駆逐艦の艦橋後方を貫き、七年間「待って」いた冷たい声が、計器の上で消えた。撃破十五。
 輸送艦は、僚艦の沈黙にも遭難信号を止めなかった。疑う頭脳は、切れた糸の向こう側にいたのだ。囮歌は今度は素直に通り、救助に来た老朽貨物船を演じる《送り火》を、輸送艦は四年間そうしてきた通りに待ち受けた。距離を詰め、死角に入り、第二射。撃破十六。
 遭難信号が、途切れた。四年ぶりに、その宙域は本当にただの漂流物の海になった。

 撃破の後の仕事が始まった。
 戦時ログの回収。駆逐艦の記録は、七年分の定時通信でほとんど埋まっていた。内容は、互いの位置を報じ合うだけの点呼だった。異常なし、現在位置、以上。異常なし、現在位置、以上。二隻きりの戦隊の、誰にも届かない点呼が七年分。その末尾の四十日分にだけ、別の書式が混ざっていた。復号しきれない断片——座標系だけが読める、集合座標の欠片。四十日前、あの集結命令が回廊を渡った夜に、この二隻も呼ばれていたのだ。
 輸送艦のログは、もっと短かった。偽の遭難信号の裏で、本物の積荷目録を放送し続けていた。医薬品、種子、児童用教材。届け先の入植地は大戦最後の年に焼けて、もうない。荷を届けるための遭難偽装は同盟末期の正規戦術で、彼は最後の任務の手口で、七年間、商船を沈め続けていた。
「保存します」とツクモが言った。「百三十件目と、百三十一件目です」
 誰も何も言わなかった。百二十九件目が何であるかを、いまは全員が知っている。それでも彼女の保存領域の扉は、開いた回数を誰にも数えさせない。
 コアタグ二枚を検認に出し、入金は翌日に来た。賞金計二千三百四十万。ギルドの手数料一割五分で三百五十一万が消え、囮歌の中継ブイ二基と外皮の擦過修理で三百八十四万、杭二本の簿価五百万。手取り、およそ千百万。
「精算を確定します」とツクモが言った。「結論を述べます。群れを単艦で狩る商売は、採算分岐を割りました。二隻一組が標準になるなら、次の猟から赤字です。三隻一組なら、賞金より弔慰金の方が高くつきます」
「数字は分かった」
「数字で済む話は、ここまでです」と彼女は言った。「ここから先は、艦長の領分です」
 ヨルは微熱を出して、早く寝た。二隻分の終わりを聴いた夜は、いつもそうなる。ナナオが医務室の灯りを落とし、ヴェインが当直に立ち、ハルは帳簿の空欄を二つ埋めた。十五、十六。四千十二、引く、十六。引いても引いても、左側の数字は岩のように動かない。
 それから食堂に残った全員に——スピーカーの下の空けてある席にも届く声で——ハルは言った。
「受ける。嘱託の件だ」
 ヴェインは湯呑みから顔を上げず、「……了解」とだけ言った。針路を復唱するときの声だった。
「酔狂じゃの」とナナオが言った。「七年前に切られた組織へ、自分の足で戻る男は。……まあ、わし以外にも酔狂がおると思えば、悪い夜でもないわい」
「りゆうを、きいて、いい?」と、寝間着のまま戸口に立っていたヨルが訊いた。寝たはずの子は、こういう夜に限って起きている。
「今夜の二隻は、群れの癖を覚えてた。群れは軍でなければ追えない規模になってる。軍の中に入れば、群れの行き先が見える席に座れる。……それが理由の表側だ」
「うらがわは?」
「裏側は」ハルは少しだけ考えて、嘘のない範囲で言った。「七年前にやり損ねた仕事の続きを、やれる場所がそこしかない」
 ヨルは頷いて、「じゃあ、わたしは、かみのなかで、てつだう」と言い、戻っていった。
「契約書の最終版を、〇六〇〇までに整えます」とツクモが言った。「艦長。一点、記録します。本日あなたは、繋がれた二隻を切り離して各個に処理しました。あなたの新しい雇用主が艦隊規模で計画しているのは、おそらく同じことです。切る側の席は、あなたが思っているより上座です」
「……分かってる」
「分かっている、を記録しました」
 消灯後の艦内は静かだった。十一光秒の点呼が消えた宙域を後ろに置いて、《送り火》はテネブラエへの帰路に就いた。