第105話 腕章

 第三一二日、テネブラエ港、連合臨時庁舎。
 庁舎の前には朝から列ができていた。徴用の異議申し立ての列と、予備役招集の手続きの列と、軍需の入札の列。三本の列のどれにも並ばず正面から入っていく男を、列の全員が目で追った。葬儀屋だ、と誰かが言うのが聞こえた。聞こえたが、振り返る用事はなかった。
 調印というものは、思っていたより流れ作業だった。番号札を取り、指紋を取られ、虹彩を読まれ、三人の事務官の前を順に通る。事務官たちは誰もハルの顔を見なかった。見るのは画面と書類だけで、それは冷遇ではなく、軍の事務というものの平常運転だった。七年ぶりのその平常運転の中を、ハルは静かに流されていった。
 宣誓は定型文の朗読だった。正規士官の宣誓文と一語だけ違う。正規は連合の法と軍規に「服する」、嘱託は「準ずる」。服する者は組織の内側で守られ、準ずる者は組織の縁にぶら下がる。一語の違いが、この身分の全部だった。ハルは一語まで正確に読み上げた。声は揺れなかった。揺れる段階は、もう三日前に終わっていた。
 嘱託士官証が出た。顔写真の下、階級の欄に階級はなく、「特務嘱託(戦術顧問)」とある。所属、参謀本部特務局。有効期限、契約終了日まで。裏面の注意書きの最後の一行に、本証は身分を証明するが地位を保証しない、という意味のことが役所の言葉で書いてあった。正直な紙だった。
 提出した条項は、ほぼ原案のまま通っていた。
 《送り火》艦内への立入検査の全面免除。乗員名簿および職務記録の提出免除。独立指揮権。官給品の数量と期日。修正はわずかに二箇所——句読点がひとつと、部局名の表記がひとつ。削られたのは予定通り、残骸の取り扱いの協議権だけで、それも全面削除ではなく「事前通知」への格下げで残った。
「……通りすぎだな」
 控えを繰りながら、ハルは小さく言った。軍の決裁は遅い。それは善悪ではなく物理で、決裁経路に判が九つあれば九日かかる。この契約は判が九つ揃って、二日で降りていた。現役の四年間、彼はこんな速さを一度も見たことがなかった。誰かが先回りして、九つの机の上を均してある。均してくれている、と言うべきなのだろう。礼を言うべき速さが、棘の形をして指に残った。礼と棘の区別は、書類からは読めなかった。
 最後の窓口で、給与口座が開設された。月額八百万クレジット、月末払い。付記として、軍管轄案件における撃破に賞金は支給されない旨が、わざわざ太字で書いてあった。賞金の消えた稼業に、月給が現れた。七年やってきた罪の分割払いに、今度は固定給が出る。帳簿のどの欄にそれを書けばいいのか、ハルにはまだ分からなかった。
 私掠免状第〇一一号については、係官は一瞥して返した。
「併存します。返納の必要はありません」
「嘱託と私掠は、利益相反では」
「上の判断です」と係官は言い、それ以上は言わなかった。免状と嘱託士官証、二枚の紙が同じ書類入れに並んだ。一枚は彼を合法の海賊にし、一枚は軍の顧問にする。二枚とも、還らず艦という同じ獲物を向いていた。

 支給品の最後が、腕章だった。
 第七方面軍の紋章。星をくわえた鷲。七年前、調査も弁明も許さずに彼を切り捨てた組織の徽章が、薄い布の上で洗い立ての顔をしていた。受け取りの判を押すとき、係の事務官が初めてハルの顔を見た。何か言いたそうな目だったが、何も言わなかった。言わない代わりに、腕章をもう一枚、黙って添えた。
「予備です。……現場では、よく汚れますので」
 気遣いなのか嫌味なのか、判別はつかなかった。両方であっても、おかしくない言葉だった。
 艦に戻り、自室の鏡の前で、ハルはそれを左腕に巻いた。
 鏡の中の男は、思っていたよりも普通の顔をしていた。憤りも皮肉も浮かんでいない。ただ、腕章の位置を直す手つきだけが、規定の高さを勝手に覚えていた。袖口から指三本。七年経っても、手は組織の癖を忘れていなかった。忘れていないことが、いちばん応えた。
 誰も皮肉を言わないので、ツクモが言った。
「お似合いです、艦長。七年ぶり二度目の着用ですので」
「……数えてたのか」
「数えるのが仕事です。一度目の着用期間は四年と二ヶ月、外された理由は不当。二度目の着用期間は、未定です」
「外す側と外される側、今度はどっちだと思う」
「データが不足しています。ただし、外される場合の手順は前回と同一と推定します。書類が一枚来て、終わりです」
 底冷えのする正確さだった。ハルは腕章を巻いたまま食堂に降りた。
 ヨルが寄ってきて、腕章をじっと見た。
「それ、ハルの、いろじゃ、ない」
「ああ。借り物の色だ」
「かりもの」彼女は繰り返した。「……でも、ハルが、えらんで、かりたなら、いい。わたしの、だいさんじょうと、だいよじょうも、そのそでに、ついてるんでしょう」
「ついてる」
「じゃあ、その腕章、わたしのせんの、となり」
 線の隣、という言い方を、ハルはしばらく考えた。考えても、それ以上正確な位置の言い方は見つからなかった。
 医務室の戸口で、ナナオは腕章を見て、薬棚の整理の手を止めなかった。
「巻いたかの」
「巻いた」
「七年前にあんたを切った判子と、今度あんたを雇った判子は、同じ抽斗に入っとる。それだけは忘れんことじゃ」老医は棚の瓶をひとつ、奥へ押し込んだ。「忘れんで済むように、わしが時々思い出させてやる。医者の仕事の範囲内じゃよ。古傷の経過観察、というての」
「往診料は」
「月給から天引きじゃ。八百万も貰うんじゃろうが」
 乾いた笑いがひとつ落ちて、それきりだった。冗談の形をした約束だということは、二人とも分かっていた。

 同じ日の夕方、ヴェイン宛に通知が届いた。
 発信元は連合軍法務部。文面は三行だった。戦犯リスト記載事項の審査手続きを、特務嘱託契約の有効期間中、凍結する。凍結は抹消を意味しない。契約終了時に手続きは再開され得る。
 ヴェインは通知を二度読んだ。それから胸元の識別票の上を、服の上から一度だけ押さえた。
「……凍結か」
「不服か」
「いや」彼は通知を畳んだ。「氷の下で待つのは、慣れてる。七年、そうしてきた。……ただ、これで借りが増えた。誰にだか分からん相手に借りるのは、好きじゃない」
「相手は分かってる。ホーク大佐だ」
「分かってるのは名前だけだ」とヴェインは言った。「名前と相手は、別のもんだ」
 操舵手の言葉は、いつも短くて、たまに長く残る。名前と相手は別のものだ——ハルはその一言を、帳簿に書かない側の記憶に置いた。書かない側の記憶の方が、たいてい長持ちする。
 夜、ハルは支給品の目録を整理した。腕章、士官証、暗号鍵、通信符丁表、それから官給弾薬の請求書式。並べてみると、与えられたものの一覧は、欲しかったものの一覧と綺麗に重なっていた。名誉回復の入り口、ヴェインの氷、ツクモの許可、ヨルの線。全部、欲しかったものだ。欲しかったものを全部知っていた誰かが、全部、先に用意していた。
 並べたものが輪の形に見えた気がして、ハルは目録を閉じた。温かいものに鎖の名前をつける理由は、いまはまだ、なかった。
 寝る前に、帳簿を開いた。
 月次の欄に、見たことのない行を書き加えた。月給、八百万、月末。書いてから、その行の隣に何を書くべきかを考えた。数字の隣には、いつも失われたものを書いてきた。賞金の隣には沈めた艦の名を、配当の隣には死んだ者の数を。月給の隣に書くべきものは、まだ分からなかった。分からないまま、欄だけを空けておいた。この帳簿の空欄は、いつも後から埋まる。埋まり方を選べたことは、一度もない。
 消灯の直前、端末が短く鳴った。
 参謀本部特務局発、特務嘱託アマノ・ハル宛。初出仕の命令書だった。出頭先、第二星系、第七方面軍前進基地。期日、四十八時間以内。随伴艦、《送り火》。命令書の末尾には定型の結句が付いていた——以上、命令する。
 七年ぶりに受け取る、その四文字だった。