第118話 医官の署名
休暇願の決裁欄に、ハルは判を押した。
「行き先は書かんよ」とナナオは先に言った。
「書式上は不備だが、嘱託の戦隊に書式の監査は来ない」
「便利になったのう、うちの艦も」
医務室の戸口から、ヨルが訊いた。
「どこ、いくの」
「古い借金のな、利子の確認じゃよ」と老医は言った。「四日で戻る。聴音は一日二回、十分ずつ。守らんかったら、わしには分かるからの」
「しゃっきん」と彼女は言葉を転がした。「おかね?」
「おかねなら、楽でええんじゃがな」
ハルは決裁の控えを綴りに仕舞い、それ以上は何も訊かなかった。便名を控えた晩から、老医が一人で何かの帳尻を数えていることには気づいている。気づいていて訊かないのは、不誠実ではなく、たぶん分業だった。この艦では、誰もが一人分ずつ、訊かれたくないものを運んでいる。
◆
定期船の三等席で、ナナオ・ジンは膝の上の古い鞄を抱えていた。
軍医時代から使っている診療鞄だ。中身は薬と器具で、二十年前と変わらない。変わったのは持ち主の用件の方で、今日の鞄は診療には使わない。医者の鞄を提げた老人は、どこの検問でも風景の一部になる。風景になるための鞄だった。
第二星系の軍補給廠は、大戦中は方面軍の心臓だった場所だ。いまは心臓の三分の一だけが動いていて、残りは倉庫と埃に貸してある。併設の軍病院は本館だけが生きていて、ナナオが勤めていた研究棟は、窓に板を打たれて備品倉庫になっていた。彼はその前を、足を止めずに通った。止めれば、思い出は診療時間を守らない。
ナナオ・ジンは、検収場の隅の事務室で、二十年ぶりの男と向き合っていた。逆質問を寄越した、旧軍病院の元薬剤監。互いに名を呼ばず、世間話を七分やった。誰それは退役して孫の世話をしている、誰それは三年前に死んだ、本館の二階の医長は相変わらず藪だ。七分の世間話に、死んだ名前が四つ出た。古い軍人の世間話は、半分が点呼で、点呼の返事は年々減る。七分が、盗聴の有無と、互いの肚とを測る二人の流儀だった。
「……一二〇七便の医療枠じゃがな」
「あれは検収を通らん」と男は言った。「特務局枠は封緘のまま素通りだ。わしが見られるのは、積み込み前の調達台帳の控えだけでな。……見るか」
「見ん方がええかの」
「見ん方がええ。だから、持ってきた」
台帳の写しは、三枚だった。
一枚目、培養槽用の灌流液、月次二、四〇〇リットル。二枚目、神経接続培地と電解質基材。三枚目の品目を読んで、ナナオの指が止まった。
鎮痛系遮断薬。
痛みを消す薬ではない。逆だ。鎮痛の機構を薬理で塞ぎ、痛覚の信号を減衰させずに通すための調剤。まともな医療に、使い道はほぼ無い。使い道があるのはただ一つ——痛覚を学習信号として使う管制系の、感度の維持だけだ。
二十数年前の会議室を、ナナオは不意に思い出した。卓上に並んでいたのは比較表だった。鎮痛下の培養体は学習効率が三割落ちる、という実測値。三割は、戦時には人命の単位に換算される数字だった。換算表を作ったのは別の部署で、署名欄に判を捺したのは医官の彼だった。判は一秒で済んだ。一秒で済んだことを、彼はその後の二十年、一日も忘れずにいる。
その設計の承認書類に署名をした人間は、生きている限り、この品目を読み間違えない。署名をしたのは、五十八歳のこの自分だった。
「行き先は」
「台帳上は、第二星系第四衛星軌道の資材集積場。……そんな集積場は、軌道台帳に載っとらん。載っとらん場所へ、毎月、生き物を生かす量の灌流液が行く」
「発注書式の頭の、計画コードは見たかの」
「見た」と男は言った。「お前さんが、見たくない並びだ」
ナナオは三枚目を裏返して、コードを見た。
大戦中、彼が医官として承認印を捺した計画の管理番号と、同じ並びだった。枝番だけが、一つ進んでいた。彼の署名で始まった計画は、終戦で死んだことになっている。死んだことになっている番号に、枝が生えていた。
「……これは、返す」と彼は写しを卓に戻した。「わしは今日、ここに来とらん」
「ああ。わしも、会っとらん」
二十年ぶりの男は写しを抽斗に仕舞い、鍵をかけた。かけてから、鍵のかかる場所に置いておく程度には自分もこの紙を捨てられないのだ、という顔を一瞬だけして、一度だけ目を上げた。
「ジン。深追いするなら、わしの名は出すな。出さんでもな——あの枠に触った検収員が、二年前に一人、配置換えになっとる。中央の倉庫番にだ。栄転と呼ぶ者は、おらんかった」
帰りの定期船で、ナナオは四時間、窓の外を見ていた。
窓の外には何もない。何もない所を見ているときだけ、人間はまともに考えられる。診療所の窓も、軍病院の窓も、宇宙の窓も、その点では同じだった。
暴くか。
持っているのは、品目の記憶と、台帳に載らない集積場と、枝番の生えた計画コード。証拠と呼べるものは一つもない。写しは返した。出所を言えば、二十年ぶりの男が消える。照会を続ければ、続けた線は必ず逆に辿られる。辿られた線の先には《送り火》があり、艦の中には、あの台帳の品目が生かすのと同じ作りの娘が一人いる。
線を引けば、ヨルが照らされる。
照らされた先のことを、彼は医者として正確に想像できた。台帳に載らない集積場の培養槽と、月次二、四〇〇リットルの灌流液。あれを管理する側の目に、ヨルは患者ではない。在庫だ。逸失在庫の再回収ほど、組織が熱心になる仕事はない。彼女の主治医を名乗る人間のやるべきことは、診断を世間に公表することではなく、患者を待合室から隠しておくことだった。
それだけではなかった。ハルは七年ぶりに、名誉の回復に手の届く場所にいる。戦死者に特進を取ってやれる席に、死んだ書式を生き返らせる権限に、月給の出る贖罪に。あの男がやっと得た居場所の床板を、剥がす側に自分が回るのか。剥がして出てくるものが、自分の署名の枝番だと知りながら。
わしの署名がな、まだこの宇宙を殺しとるよ——いつもの自嘲を、口の中で転がしてみた。いつもは防壁になる軽口が、今夜は重さを少しも受け止めなかった。署名は、過去のものではなかった。現在進行形で、毎月二、四〇〇リットルの灌流液を注文している。
暴いたとして、何が止まるのか、という問いも残った。発注は特務局の名で動いている。特務局は、嘱託契約の判子の出どころで、戦犯リストの凍結の出どころで、立入検査免除の条項の出どころだ。この戦隊を生かしている水源と、あの集積場を生かしている水源は、同じ一つの蛇口だった。蛇口を閉めれば、全部が一緒に乾く。
四日目の夕刻、艦に戻った。
舷梯の上で、ヨルが待っていた。待っていた、という姿勢を隠しもせずに。
「りし、あった?」
「あったよ」と老医は言った。「思ったより、利子のつく借金じゃった」
「かえせる?」
「さあての。……聴音は守ったか」
「いちにち、にかい。じゅっぷん」と彼女は几帳面に答え、それから付け足した。「ドク、つかれた、かお」
「年寄りの顔は、いつでも疲れとるんじゃよ」
嘘はついていない。一つも嘘をつかずに、何一つ本当のことを言わない話法を、彼はこの晩から運用に乗せた。
夜、彼は端末の照会記録を全て消した。私信の控えも、検索の履歴も、埠頭で便名を控えたあの晩のメモも。消去は医者の手つきで、丁寧に、患部を残さず行われた。
それから棚の酒を出し、注ぎ、飲んだ。今夜は、眺める手順を省いた。
何も知らない顔、というものを、彼は鏡を見ずに作った。医者は知っている。顔は筋肉でできていて、筋肉は訓練でできている。告知すべき病名を抱えたまま家族と世間話をする訓練なら、三十年やってきた。今度の患者は、艦が一隻まるごとだった。
「……わしは、何も見とらんよ」
誰もいない医務室で、声に出して、一度だけ稽古をした。
稽古は、一回で様になった。様になったことが、いちばん堪えた。
灯りを落とすと、薬棚の硝子に、何も知らない顔の老人が薄く映っていた。よく出来た顔だった。彼はそれに、診断名をつけなかった。