第126話 返した腕章

 組織が人を切り離すとき、音は立たない。立つのは判子の音だけだ。
 第四五三日から三日間、ハルは判子の音を聞いて過ごした。七年前の切り離しは三日で済んだ。今度も三日だった。組織の出口の寸法は、入り口より正確にできている。
 最初の一日は、戦隊の返納だった。《迎え火》と《燈籠》は方面軍の直轄に戻る。指揮権の移転は書式一枚で済み、書式一枚で済むものに、三月の猟と、撃破九と、十五人の柩が載っていた。移転の事由欄には「政務上の要請による」とだけある。教団の名は、軍の書類には書かれない。書かれないものが書類を動かすのは、七年前から変わらない。
 移転の通信で、ガロは敬礼をしなかった。着任の日と同じだった。
「葬儀屋。一つだけ言っておく」と老艦長は言った。「俺の部下を喰った艦は、まだ外にいる。あんたの帳面が止まると、俺の照合も止まる。……早く戻れ。命令で、とは言わん」
「努力します」
「努力は要らん。手続きをしろ。あんたはそれが本職だろう」
 通信の最後に、老艦長は一度だけ、ごく浅く頭を下げた。十五度。誰への詫びとも礼ともつかない角度だった。
 コルベルは、硬すぎる敬礼を最後まで崩さなかった。
「ログ回収の手順と戦没認定の旧書式は、《迎え火》の標準手順に載せました。指揮系統が変わっても、手順書は返納品目に入っていません」
「……それは、書式の穴だな」
「はい。残しておく種類の穴です」と若い艦長は言った。「直轄に戻っても、うちの艦は、沈めた相手の記録を読みます。読む艦が二隻に増えたままだということは、覚えておいてください」
 通信が切れて、戦隊は二隻に戻り、それから一隻になった。
 最後に、戦隊旗が返った。授与のとき桐箱ごと渡された、たたみ皺も新しい旗だ。掲げた期間は百日余り。箱に戻すと、旗は授与の日と同じ顔をしていた。布は何も覚えない。覚えるのは、布に敬礼した側だけだ。
 返納目録の最後の行に、ハルは自分の手で受領者の署名をもらった。もらう義務はない。義務のない控えを取るのが、書類で殺された男の流儀だった。
 二日目は、物品だった。官給の中枢杭、残り三本。来歴と本数を検収係が照合し、緩衝材に包まれ、持ち出された。弾庫には自前の二本だけが残った。買い取った一本の代金二五〇万は、猟の直後に払ってある。貸し借りの欄は白い。白い欄を眺めて気が晴れるかというと、晴れはしなかった。
 三日目が、腕章だった。

 聴聞室は、半月前と同じ六角形の部屋だった。
 嘱託の凍結。月給の停止。特例運用許可は「現状維持のまま再審査」。読み上げる主計科の中尉は事務的で、丁寧で、ハルの目を一度も見なかった。見ないことが礼儀の手続きというものを、軍は持っている。七年前、不名誉除隊の宣告を読み上げた法務官も、同じところを見ていた。机の上の、誰のものでもない一点を。
 ハルは腕章を机に置いた。畳んで、嘱託士官証を上に重ねて。七年ぶりに袖を通した布は、置いてみると、拾われた日の書類と同じ厚みしかなかった。
「受領します」と中尉は言い、判を捺した。それで全部だった。
 艦に戻る道の舷梯の下で、ヨルが待っていた。
「うでわ、かえしたの」
「腕章だ。返した」
「かえすと、どうなるの」
「軍の仕事が、なくなる」
「……まえの、しごとに、もどる?」彼女は少し考えてから、言い直した。「まえの、わたしたちに、もどる?」
「戻る」とハルは言った。戻れるものと戻れないものの仕分けは、言わなかった。
 庁舎の外、桟橋の手前で、ホークが待っていた。舷梯には近づかない。条項を尊重する立ち位置を、この男は一度も間違えたことがない。
「処分ではない。保留だ」と大佐は言った。「教団は世論を取った。遺族団体が三つ、政務部の前で祈った。政務部は天秤を持った。天秤が戻るまで、お前を秤から降ろしておく——それだけのことだ」
「分かっています」
「分かっていない顔だな。まあいい」ホークは桟橋の照明を見上げた。「月給は止まるが、お前の艦の素性に関する書類は、私の机から動かさん。再審査の主査も、私の局の者だ。……貸しにしておく」
 貸しにしておく。
 その言い回しに、舷梯の上で部品箱を抱えていたナナオが、ほんの僅か、眉を動かした。動かしただけで、何も言わなかった。大佐は片手を上げ、役人の歩幅で帰っていった。恩の言葉と貸借の言葉は、よく似ている。似ていることに気づく者が艦に一人いて、その一人は今夜も、何も知らない顔がうまかった。
 その夜、ナナオは一度だけ言った。
「のう、ハル。貸しという言葉はな、返す日取りを決める権利が、貸した側にあるという意味じゃよ」
「……覚えておく」
「覚えとくだけで、ええ」
 保安機構の分署では、カンプが決裁の山の向こうから一瞥を寄越した。
「聞いたぞ。腕章、返したそうだな」
「返しました」
「公式には、お前は今日からただの傭兵だ。準指定業者の登録は生きてるが、教団の異議が絡む案件は当分凍る。つまり実質、干される」分署長は判を一つ捺した。「公式には、な」
「……非公式には?」
「非公式の話を分署でする馬鹿があるか。出ていけ」
 出ていけ、の声は、言葉ほど尖っていなかった。扉が閉まる寸前、決裁の山の向こうから、独り言の体裁の声が追ってきた。
「——干された猟犬が暇潰しに何を調べようと、うちの管轄じゃない」
 役人の言葉の層の下に何が入っていたのかを、ハルは桟橋までの道で考えた。今度は一度で答えが出た。あれは黙認の、前払いだった。

 艦に戻って、ハルは帳簿をつけ直した。
 収入の欄、ゼロ。軍の包括保険は契約と一緒に切れ、民間の保険と港湾使用料が戻ってくる。月九〇万。クルーの給与、月五五万。残高一〇、〇〇三万から、毎月一四五万ずつ、ただ減っていく帳簿。七年やってきた自転車操業と違うのは、ペダルを漕ぐことすら止められている点だった。猟に出る資格はある。獲物の賞金が、出ないだけだ。
 支出の頁に、戻ってきた項目を書き入れていく。保険、港湾使用料、係留電力、水と空気の更新料。五月ぶりに自分の金で買う空気は、銘柄が同じでも値段の顔つきが違った。
 ヴェインは机上の整備計画を、黙って三割増しに書き換えた。
「……暇な艦は、傷む」
 それだけ言って、機関区に降りていった。干される、という言葉の中身を、あの男は自分の七年で知っている。
「帳簿の予測を更新しました」とツクモが言った。「現状の支出が続いた場合、残高がゼロになるまで五年九月。参考までに、本艦が大戦を生き延びた期間より長いです」
「……それは、慰めか」
「事実です。慰めに分類するかは、艦長の裁量です」
 夜半過ぎ、ナナオが酒場から戻ってきた。土産は酒ではなく、噂だった。
「強硬派の艦隊が、錨を上げたそうじゃ」と老医は言った。「九隻。司教座の旗を立てて、行き先は連合の管轄外——ヴェスペラじゃと。中立港の」
「ヴェスペラ……」
「引揚者の港じゃよ。終戦のとき、行き場のない連中が流れ着いて、そのまま住み着いた。二万からの人間が、どこの星系の籍にも入らんまま暮らしとる。……教団の艦隊が、巡礼に行く土地柄ではないのう」
「噂の出どころは」
「軍の輸送屋じゃ。係争宙域の縁を飛ぶ連中は、教団の艦列とすれ違うのを嫌うでな。九隻が単縦陣で、灯火管制もせず、堂々と飛んどったそうじゃよ。……隠れる気のない艦隊というのはな、ハル。着いた先でやることを、隠す気がないということじゃ」
 ナナオは酒を一杯だけ注ぎ、飲まずに、卓の上で回した。
「もう一つ。酒場の隅で、引揚者くずれの爺さんが泣いとった。ヴェスペラに娘夫婦がおるそうじゃ。便りを出す手段も、迎えに行く船賃もない。……わしは診察代の代わりに、聞くだけ聞いてきたよ」
 ハルは星図を呼び出した。旧同盟領との境界、係争宙域。ヴェスペラの小さな標点に、ツクモが航行警報の重ね書きを足した。
「警報番号七七一二。大破した大型還らず艦の漂流体。三週間前から各所の航行警報に載っています。推定針路を表示します」
 点線が、ゆっくりと伸びた。
 漂流体の針路は、ヴェスペラ港に、まっすぐ重なっていた。