第131話 浄火
ヴェスペラまで残り六時間の針路で、《送り火》は港の焼かれる音を聞いていた。
映像はまだ届かない。届くのは波だけだ。港湾管制の公開波。区画番号の呼び出しと、応答と、応答のない区画。その上に教団艦隊の公開波が祈祷を流し続け、祈祷の下で、放電の音が十四秒ごとに正確に重なっていた。歌と、拍子。それが浄火の様式だった。
祈祷の文句は、葬送のそれだった。浄火に抱かれる魂よ、火は門であり、門の向こうに安らぎがある——焼いている側が、焼いている相手のために唱える祈りだ。文句のどこにも憎しみはなく、憎しみのないことが、聞いていていちばん堪えた。
「弾着解析を更新します」とツクモが言った。「砲撃開始から二時間十一分。火線は港湾第三区画から第七区画へ移行中。第三区画は応答が途絶——与圧喪失と推定します」
「第三区画の人口は」
「公報の推計で三千二百。退避率は、不明です」
不明、という言葉の中身を、誰も声に出して数えなかった。数えられない欄が増えていく帳簿を、ハルは黙って見ていた。
公開波には、あの老管制官の声が残っていた。
「——第三区画、応答なし。繰り返す、応答なし。第七、隔壁を閉じろ。第九区画、詰めろ、まだ入る。鐘はもう鳴らさん。……聞こえん区画が、増えた」
声は六時間、波の上にい続けた。だんだん事務的になり、事務的になるほど、その下にあるものが聞こえた。
「ツクモ。全部、記録しておけ」
「しています。公開波、祈祷の文句、弾着の時刻、すべて。……用途を伺ってもよろしいですか」
「あとで誰かが調べる日のためだ。七年前は、誰も録っていなかった。録っていない夜のことは、あとから好きなように書かれる」
「了解しました。好きなように書けない夜にします。保存は、私の得意分野です」
通信が一区画ずつ沈黙していくのを、回線のこちら側で聞いている。それが何の再演なのかを、ハルは最初の一時間で認めた。七年前の終戦の夜、中継室の彼は、外縁方面の中継網が一局ずつ落ちていくのを、こうやって聞いていた。あのときは、落ちた先で何が起きるのかを知らなかった。今は知っている。知っていて、針路を保つ以上に速くは飛べない。知識と速度が別物であることを、宇宙は七年前から一度も改めていなかった。
ヴェインは操舵席で、同盟製の古い星図を一度だけ指でなぞり、それきり計器から目を離さなかった。四本目の航路は、彼の言ったとおりよく揺れた。揺れの中で機関は出せる全部を出していて、それでも教団より六時間遅い。六時間の遅れの中身が公開波で逐一聞こえてくることが、この航路のいちばんの料金だった。
ヨルは艦橋の聴音卓にいた。規定の枠の中の、彼女が自分で決めた聴音だった。ナナオが横に立ち、記録用紙と時計を持っている。
十分の枠の七分目で、彼女の手が止まった。
「……きこえる。ふたつ」
「ふたつか」とナナオが訊き返した。
「あの艦。『入港許可を求む』って、ずっと。……それから、港。港の声が、へっていく。ひとつ、ずつ」
漂着艦は港の手前三十万キロを微速で漂い、七年前の符丁を打ち続けている。その符丁の向こうで、港の通信が一区画ずつ消えていく。帰ろうとする艦の声と、帰る場所の消えていく音とを、彼女は同じ耳で聞いていた。
「やめるか」
ヨルは首を横に振った。振ったまま、動かなくなった。卓に置いた手が白くなり、八分目で、ナナオが回線を切った。彼女は抗議しなかった。抗議する息が残っていなかった。
「……つづき、は」
「続きは、わしらが聞く。お前さんは、数えるところまでやった」
ナナオは彼女を医務室へ降ろした。二重隔壁が閉じる音を、艦橋の誰も振り返らなかった。振り返らないことが、この艦の作法だった。
第四六一日二三四〇、《送り火》は実空間に降りた。
港から五十万キロ。大戦で沈んだ曳船の残骸帯に艦体を伏せ、機関を絞り、受動観測だけで宙域を見る。九隻の輪形陣は教科書どおりの間隔で港を巻き、旗艦の祈祷は途切れず、斉射の閃光が十四秒ごとに観測波の縁を白くした。その内側のヴェスペラ。港の第三区画があった場所は、観測の上では、もう構造物ではなく、ただの温度になっていた。
晩課の鐘は、もう聞こえなかった。鳴らす者がいないのか、鳴らす意味がなくなったのか、波の上からは分からない。避難の合図を兼ねた鐘の沈黙は、避難の終わりか、合図の届く区画の終わりか、どちらかを意味していて、どちらなのかを確かめる手段が、外からは一つもなかった。
第一射は、とうに終わっていた。間に合うという言葉の使い道は、もうない。あるのは、ここから先の火線をどこへ持っていくかだけだった。
「状況を言う。三十秒で済む」とハルは言った。済む長さに、針路の上で削ってあった。
「一つ。彼我は九対一。撃ち合えば——ツクモ」
「正面交戦時の本艦の残存予測、四分十秒です」
「四分だ。だから撃ち合わない。誰も撃たない。教団側に死者が一人でも出れば、この火に殉教の名がつき、ツクモとヨルの引き渡し要求に大義がつく。それは港が焼かれるのと別口の、もう一つの負けだ。二つ。教団の作戦要綱の対象一は漂着艦、対象二が港だ。対象一が消えれば、浄火の根拠は文書の上で半分死ぬ。文書の上で、というのが肝だ。あの艦隊は祈りで撃っているように見えて、文書で動いている。三つ目——ツクモ、解析を」
「砲撃二時間ぶんの弾着分布から、教団艦隊の射撃管制の構造を特定しました。火線格子の原点が、漂着艦の管制波に固定されています。教義の実装です。火は徴に向かう——砲術に翻訳すると、ああなります。原点が動けば、格子ごと動きます」
「偽の原点は立てられるか」
「立てられます。漂着艦の管制波は三週間ぶん採取済みです。複製精度に問題はありません。中継浮標六基を港の裏の空域へ撒けば——徴は、動かせます」
手は二つ。どちらも、この艦にしかできない手だった。
一つ。漂着艦を中枢杭で仕留める。対象一を消し、浄火の根拠を文書から削る。
二つ。同じ瞬間、囮歌で偽の管制波——偽の徴を、港の反対側の空白に立てる。射撃管制の原点ごと、火線を港から引き剥がす。
「欺瞞は、いずれ割れる」とハルは続けた。「割れたとき、艦隊の火は偽の徴を立てた艦——本艦に向く。そこから先は、的の仕事だ。的でいる時間が長いほど、火は港から離れ、退避の窓が開く。被弾は前提に入れる。死人は入れない」
「死人を入れない前提の精度は」とナナオが訊いた。
「ヴェイン次第だ」
「……舵、もらう」
それだけだった。同盟側だった男は、もう操舵席で四本目の航路の名残を畳んでいた。あの港の名簿に知った名字があるかどうかを、彼は最後まで確かめていない。確かめないまま、舵を取る。
「医務室は二重隔壁を閉鎖しとく」とナナオが言った。「被弾前提と言うたな。前提の分だけ、処置具を出しておく。……それと、一つだけ医者の注文じゃ。あの艦を撃つとき——手際よくやれ。七年待たせた上に、長く待たせるな」
「ああ」
「港を救う手が、墓掘りの手しかないとはのう。まったく、回廊はわしらに向いた商売しか寄越さん」
誰も笑わなかった。笑えない冗談だけが、本当のことを言う。
ツクモが、定時の声で言った。
「成功率を提示しますか」
「いらない」
「了解しました。算定不能のまま、行きます。——なお、確認します。杭の在庫は自前の二本。本作戦での使用予定は一本。残り一本は、外した場合の予備です。外さないでください」
「外さない」
「はい。それから、艦長。本作戦は、依頼人なし、賞金なし、命令なしです。航海記録の目的欄は、前回と同じでよろしいですか」
「……私用、と書け」
「私用。記載しました」
ハルは射撃管制盤に向き直った。盤の数字はいつもどおり冷たく、冷たい数字の向こうで、港が焼かれている。十四秒ごとの閃光を、彼は一度だけ数えるのをやめた。数える側でいるうちは、まだ間に合う——いつか娘に言った言葉の続きを、いまは自分が試されている。
「杭、装填」