第132話 杭と火
接近は、死にかけた艦の影を借りて行われた。
漂着艦は全長七百メートル、前半分は骨組みだけになっている。敵味方識別は死に、索敵も死に、生きているのは微速の機関と、符丁を打ち続ける送信系だけだ。《送り火》は熱を殺し、残骸帯から港の陰へ、港の陰からその巨大な骨の陰へと、三段で滑り込んだ。教団艦隊の観測から見れば、徴の影がわずかに濃くなっただけだった。
近づくほど、艦の傷が見えた。装甲のめくれは古く、断面は風化し、骨組みには微小デブリの孔が無数に開いている。七年ものの傷の上に、もっと古い戦時の傷が重なっていた。どこの戦線で、誰の命令で、何を守って大破したのか。記録はどこにもなく、艦籍すら割れないまま、艦は港に向かって符丁だけを打ち続けている。墓碑銘のない墓石が、自分で墓地に向かって歩いているようなものだった。
「中枢区画、特定済みです」とツクモが言った。「艦尾寄り第四隔壁の奥。装甲は被弾で三割方剥がれています。杭の侵徹に、問題はありません」
「浮標は」
「六基、射出済み。港の裏の空域で待機しています。私の合図で歌います。杭の命中から偽の徴の点灯まで、〇・八秒。射撃管制の目には、徴が動いたとしか見えません」
「ヨルは」
「医務室です」とナナオの声が回線に乗った。「枠は使い切っとる。じゃが——本人が、最後だけ聞かせろと言うとる」
ハルは二秒だけ黙った。規定は彼が言い出したものだ。規定を曲げる判も、彼が捺すしかない。
「……一分だ。一分で切れ」
「一分じゃ。わしが計る」
二重隔壁の内側で、ヨルが受聴器を耳に当てるのが、回線の小さな雑音で分かった。七年間「入港許可を求む」を打ち続けた艦の、最後の一分を、彼女は自分で聞くことを選んだ。撃たれる艦の声を、撃つ艦の中で聞く。それが何を彼女から削るのかは、数日後の眠りの長さで請求されてくる。選ばせてしまうことの値段を、ハルは帳簿のどこにつければいいのか、まだ知らない。知らないまま、付けの溜まっていく欄だけが増えていく。
「杭、照準固定」とツクモが言った。「艦長、ご決断を」
「撃て」
中枢杭は、ほとんど音を立てずに艦を離れた。
徹甲杭が骨組みの間を抜け、剥がれた装甲の下に消え、第四隔壁の奥で止まった。漂着艦の機関が、数秒かけて惰性を失っていく。三週間打ち続けられた符丁が、繰り返しの途中で切れた。応答は、最後まで「許可」にならなかった。七年間、一度も。
「中枢の停止を確認。最終ログ、回収しました」とツクモが言った。「保存します。——百四十一件目です」
「……ああ」
「消去を推奨されますか」
「いや」
「了解しました。保存を維持します」
いつもの問答が、いつもの長さで終わった。医務室の回線から、ナナオの「切ったぞ」という短い声と、その奥の、何かを言いかけて言わなかった小さな息が届いた。ヨルの報告は、なかった。今は、ないままでいい。
「囮歌——」とハルは言った。「徴を、立てろ」
港の裏側、空白の宙域で、六基の中継浮標が同時に歌い始めた。
三週間ぶん採取した管制波の、寸分違わぬ複製。射撃管制の目から見れば、徴は消えていない。動いたのだ。港の手前から、港の裏の何もない空域へ。
十四秒後の斉射が、その何もない空域を白く焼いた。
誰も死なない斉射だった。次の斉射も、その次も。火線格子は原点ごと引きずられ、第七区画に向いていた砲が、一門ずつ空白へ振れていく。教団の公開波の祈祷は止まらなかった。祈りを乗せた火が、誰もいない宙を浄め続けた。浄火に抱かれる魂よ——抱く相手のいない祈祷が、十四秒ごとに、空白の上で唱えられた。
「火線、港から離脱。退避の窓が開いています」とツクモが言った。「港湾管制が動きました。第九区画、退避再開。第七区画、隔壁の補修班が出ています」
公開波の老管制官の声が、わずかに速くなった。詰めろ、まだ入る。怒鳴る余裕の戻った、生きている声だった。
欺瞞は、十九分保った。
二十分目、教団旗艦の祈祷が初めて途切れ、別の声が乗った。穏やかで、揺るがない、あの声だった。
「——徴は偽られている。異端の艦が、この宙域にいる」
観測波が束になって残骸帯を薙いだ。隠れ続ける選択肢は、最初からない。隠れ続ければ、火は港へ戻る。
「ステルス、一枚落とせ」とハルは言った。「的の仕事だ。見える的になる」
「確認します」とツクモが言った。「本艦は今から、九隻の火線格子の新しい原点になります。教義の上では——本艦が、徴になります」
「なってやる。火は徴に向かうんだろう」
《送り火》は残骸帯の縁で艦影を晒した。十四秒後、最初の火がきた。
そこからは、ヴェインの仕事だった。残骸帯の鉄の墓の間を、黒い艦は浅く、深く、不規則に縫った。沈んだ曳船の腹の下を抜け、千切れた係留塔の影で切り返す。焼夷弾は規則正しく、十四秒ごとに来る。規則正しさは読める。読めても、九隻ぶんの火線は宙域を格子に刻み、格子の目は縮み続けた。舵は半度も乱れない。乱れない舵だけが、操舵席の男の言葉だった。
「近爆」とツクモが言った。「外殻第二層、損傷。死傷なし」
艦が軋んだ。老朽艦の軋みは長い。二発目の近爆が艦尾を掠め、光条が一度、舷側を浅く灼いた。
「外殻第三層まで損傷。継戦に支障なし。……艦長。本艦が的でいられる残り時間を、申し上げますか」
「いらない」
「了解しました。申し上げないまま、続けます」
医務室から、ナナオの短い報告が上がった。揺れで二人ばかり打ち身、処置済み、ヨルは耐えとる。耐えとる、の三文字の中身を訊く余裕は、艦橋になかった。
「縫航充填、完了しています」とツクモが続けた。「離脱は、いつでも可能です。——確認のために、申し上げました」
「続ける」
「はい。確認だけです」
離脱すれば、火は十四秒後に港へ戻る。確認だけです、という言い方の中に、彼女がその計算を終えていることと、終えた上で何も推奨しなかったことの、両方が入っていた。
港の退避は続いていた。四十分。火が港から離れていた四十分は、そのまま、誰かが隔壁の内側へ詰められた四十分だった。数字にすれば、それだけのことだ。数字にすれば。
四十一分目、教団艦隊の内側で、一隻が陣形を割った。
追撃艦が一隻、輪形陣の内へ——旗艦の射線の上へ、まっすぐ割り込んだ。機関紋に、照合の印が灯る。第四星系で《送り火》を検分した艦。セルマ・ヴィオの艦が、旗艦の砲と港の間に、自分の艦体を置いた。
全周波数、暗号なし、宛先指定なしの声が、宙域いっぱいに響いた。
「退避は完了していない! 火を待て!」
斉射が、初めて十四秒の拍子を外した。
射線を塞がれた旗艦が回頭をかけ、随伴艦の管制が乱れ、九隻の火線格子が互いを避けて歪んだ。同士討ちまで、たぶん紙一枚だった。教団の公開波で、複数の声が同時に喋り始めた。射線の回復を求める声、聖騎士の拘束を上申する声、祈祷の続きを探す声。祈りの様式が、初めて崩れた。
その混乱の真ん中に、縫航通信が降りた。
発信元、浄火教団宗務院。様式は宗務命令。本文は短かった。
——対象一の喪失を確認。浄火の継続要件を満たさず。全艦、火を収めよ。
九百十七人になる死者の数も、焼かれた区画の名も、文面のどこにもなかった。会計の締めに似た三行が、九隻の砲門を閉じさせた。砲声が、止んだ。
砲門の閉じる速さは、艦ごとに違った。即座に閉じた艦が五隻。規定の手順を踏んでから閉じた艦が三隻。旗艦は——最後だった。最後の一門が閉じるまでの時間を、ツクモは秒まで記録した。記録は、いつか誰かの机で意味を持つ。持たないかもしれない。どちらでも、録っていない夜にはしない。
止んだあとの数十秒を、誰も埋めなかった。
艦橋の計器は明滅を続け、港の公開波は呼び出しを続け、《送り火》のクルーは誰一人、何も言わなかった。ヴェインは舵に手を置いたまま、ナナオは処置具を並べた机の前で、ヨルは二重隔壁の内側で、ハルは射撃管制盤の前で。四十一分間、火を引き受け続けた艦の中に、言葉にできることが一つも残っていなかった。
砲声の絶えた宙域で、ヴェスペラの公開波だけが、区画の呼び出しを続けていた。応答のある区画と、もう二度と応答のない区画を、同じ事務的な声で、順に。