第136話 司教

 修理の明けた第四八一日、《送り火》はテネブラエを発った。
 行き先は第三星系の外れの巡回泊地。航海記録の目的欄には、今度は嘘でない一語が書けた。面会。教団の礼拝船は移動する教区で、決まった航路を巡りながら、港を持たない信徒たちの祈りを拾って回る。係留の座標は通行証の裏に刻まれていた。
「敵の本丸に上がるわけじゃの」と道中、ナナオが言った。
「本丸なら、まだ楽だ。あれは——受付だ。教団のいちばん柔らかい場所だ」
「柔らかい場所のほうが、深く刺さるもんじゃよ。医者の経験則での」
 礼拝船は、白く塗られた、武装のない、古い船だった。船齢は《送り火》より上だろう。舷側の火の紋章は何度も塗り直され、塗り直しの層の厚さが、そのまま年月だった。通行証は検めの窓口で一度だけ提示を求められ、灰色の地紋を見た若い修道士は、何も訊かずに通した。訊かない訓練をされた目だった。
 身廊は、祈りで満ちていた。
 長椅子に座る信徒たちは、巡礼の途中の者、近くの星系から通う者、様々らしかった。声に出して祈る者の言葉が、通路を歩くハルの耳に切れ切れに入った。——機械に夫を喰われました。憎しみから守ってください。——息子の魂が、まだあの艦の中にいる気がしてなりません。どうか。——浄火に抱かれた者たちに、安らぎを。
 最後の一つで、ハルの足が半歩遅れた。浄火に抱かれた者たち。ヴェスペラの九百十七人は、この船の祈りの中では、もうその名で呼ばれている。祈っている女の横顔に、悪意はかけらもなかった。あるのは喪失だけだった。
 長椅子の端に、子供が一人座っていた。祈りの文句をまだ知らないらしく、隣の祖母の口の動きを目で写しては、二拍遅れでなぞっている。ああやって、教義は実体験の上に接ぎ木される。あの子が何を見て、誰を喪ってここにいるのかを、ハルは考え、考えるのをやめた。考えてどうにかなる種類のものなら、教団はとうに空き家になっている。
 教団は憎悪の組織だと世間は言う。半分は正しい。もう半分——ここは、戦争が壊した人間の、回廊でいちばん大きな受け皿だ。保安機構は予算がないと言い、連合は管轄がないと言い、ギルドは依頼にならないと言った人々が、最後に辿り着いて、ようやく名前を呼ばれる場所。受け皿であることと、港を焼くことが、同じ屋根の下にある。それがこの組織の正確な姿だった。正確な姿ほど、扱いに困るものはない。
 アッシュ司教は、祭壇の裏の小さな書斎にいた。
 小柄な老人だった。祭服は灰色で、指輪の類は一つもなく、机の上には書類の束と、冷めた茶が一杯。立ち上がる動作に時間がかかり、時間をかけて、彼は立って礼をした。
「葬儀屋どの。よく来てくださった」
「アッシュ司教」
「掛けなさい。茶は——冷めたものしかない。この船で温かいものは、祈りと揉め事だけでしてな」
 乾いた言い方だった。笑わせるためではない言い方も、久しぶりに聞いた。
「単刀直入に伺う」とハルは言った。「イグナーツ司教は、どうなる」
「査問にかけられる」と老司教は言った。即答だった。「議題は『浄火の手順の逸脱』。停戦命令の受領から砲門閉鎖までの時間超過。対象一の喪失後に継続された斉射。手続きの瑕疵が、二件」
「……九百十七人は」
「議題に上がらぬ」
 声は、穏やかなままだった。穏やかなまま、感情を一匙も挟まずに、老人は続けた。
「教団法に、民間人の死を裁く条文がない。浄火の対象宙域における死は、教義の上では殉教に分類される。殉教は罪ではない。恵みである。——ゆえに、問われるのは手順だけ。予想される裁定は、謹慎。長くて三年であろう」
「九百十七人で、三年」
「九百十七人で、三年。しかも罪状は人数ではなく、書式の不備だ」アッシュは冷めた茶を一口飲んだ。「貴公は怒ってよい。だが私を怒っても無駄でしてな。私はその査問の席に座り、その裁定に署名する側の人間だ」
「署名するのか」
「する」老人は茶碗を置いた。「署名を拒めば、穏健派は査問の席を失う。席を失えば、次の浄火を遅らせる者が誰もいなくなる。あの夜、九隻の砲門を閉じさせた三行は、席があったから出せた。三行は遅かった。遅かったが、無いよりは早かった。……三年の謹慎は軽すぎる。軽すぎる裁定に署名して席を守るのと、正しく怒って席を失うのと——どちらが次の港を救うか。私は六十年、この算術ばかりやってきた。慣れというものは、恐ろしいものでしてな。いまでは暗算でできる」
 ハルは、目の前の老人の正体を見た気がした。善人ではない。聖人でもない。組織の中で擦り減りながら、擦り減ることを職務として引き受けてきた人間だ。カンプと同じ種類の、もっと古い地層の。
「イグナーツを、憎んでいるのか」とハルは訊いた。
「同期でしてな、あれとは」とアッシュは言った。「六十年前、同じ年に誓願を立てた。あれは火を疑ったことが一度もない。私は疑うことを職務にした。信じる速さで、私はあれに勝てたことがない。……憎むには、長く見すぎた。それに憎しみは、経費が高い。九百十七人の前で使う感情を、私はもっと安いものにしておる。落胆と、計算でしてな」
「計算で、何年やれる」
「六十年やれた」と老人は言った。「やれてしまった。やれてしまったことを、信仰と呼んでよいのかは、神に訊くのを先延ばしにしておる」
「あの三行は、あんたが書いたのか」
「起案は私。署名は宗務院の七人だ。七つの判をあの速さで集めるために、私は三十年ぶんの貸しを一晩で使い切った」老人は事務的に言った。「高くついたが、安い買い物だった。ああいう買い物は、人生に何度もできるものではない。……だから貴公と話しておきたかった。次は、貸しが残っておらん」
「本題に入ろう」とアッシュは続けた。「穏健派からの申し出だ。三つある。
 一つ。教団は、貴公の艦を追わぬ。引き渡し要求は、教団内の手続きで凍結させる。永遠にではない。私が凍結を維持できるあいだ、だ。
 二つ。強硬派の動向は、こちらから流す。艦隊の集結、宗務命令の起案、その種のものを。
 三つ。引き換えに、貴公の側からも流してもらう。還らず艦の動静——とりわけ、群れる兆候のあるものを。教団は火を向ける先を、もう少し正しく知る必要がある」
「……稼業は」
「黙認する。貴公の言葉で言えば、そうなろう。教団の言葉では『観察』と呼ぶがの——同じことだ」
「異端と手を結ぶのか、教団が」
 アッシュは、そこで初めて笑った。皺の中の小さな笑いだった。
「私どもは九百十七人を焼いた。異端の手のほうが、まだ清かろう」
 笑いはすぐに消えた。消えたあとの顔は、ただ古かった。
「セルマ・ヴィオから話は聞いた」と老司教は言った。「あれは教団がこの十年で得た、いちばん良い目だ。その目を、私どもは見せしめの人事に使い、火の真下に立たせた。あれが拾い直したのが聖印だけだったこと——私はそれを、教団への裁定だと思うておる。査問の出せぬ裁定を、二十四の娘が一人で出した」
「あれの巡礼の記載は」
「私が書いた」とアッシュは言った。「強硬派は軍法の品書きを揃えておった。抗命、陣形破壊、利敵。書類で人を殺す前に、書類で消した。……礼は要らぬ。教団があれにした仕打ちの、利息にもならん」
「一つ、伺いたい」とアッシュは言った。「あの漂着艦は——最期に、何か言ったか」
「……入れてください、と」
 老司教は目を閉じ、短く何かを唱えた。浄火の文句ではなかった。もっと古い、ただの死者への祈りに聞こえた。唱え終えて、彼は何の註釈もつけなかった。註釈をつけない祈りを、ハルは教団の人間から初めて聞いた。
 連絡の経路が決められた。宗務便の私書函を一つ、巡回航路の上に置く。灰色の地紋の通行証が、互いの符牒になる。書き残される紙は一枚もない。九百十七人の死の上に結ばれる休戦は、判もなく、写しもなく、老人の記憶とハルの帳簿の外にしか存在しない取り決めだった。
 ハルは通行証を机に戻そうとした。アッシュはそれを手で制した。
「持っておきなさい。休戦の印だ。……それと」
 老人は時間をかけて立ち上がり、書斎の奥の扉を開けた。
「帰る前に——貴公に、見せたいものがある」