第137話 聖遺物

 扉の奥は、下りの通路だった。
 礼拝船のどの区画にも、小さな灯火が捧げてある。祭壇の常火、通路の蝋燭代わりの灯条、機関区の入り口にさえ火の意匠の標識があった。火の教団の船は、船そのものが火で照らされている。
 その通路だけが、違った。
 灯火が、一つもなかった。照明は白い作業灯だけで、温度は冷蔵庫のそれに近く、壁に紋章の類は何も刻まれていなかった。火の灯らない唯一の区画。聖遺物庫は、船のいちばん深いところに、火から隠れるようにあった。
「ここは寒い。年寄りには毒でしてな」とアッシュは言いながら、三つの錠を順に開けた。鍵は三本とも別の場所から出てきた。祭服の内、杖の柄、そして最後の一本は、首から下げた聖印の裏だった。
「鍵の在処を、客に見せていいのか」
「見せる相手は選んである」と老人は言った。「それに、在処を知っても、この三本は私が死なねば揃わぬ。揃え方まで見せたのは、貴公が初めてだがの」
 庫内は、四畳ほどの広さしかなかった。
 中央の架台に、冷温保管器がひとつ。中に、記憶結晶の束が静かに沈んでいる。傍らの棚に、紙の台帳が三冊。それだけだった。黄金もなく、布もなく、祈りの言葉一つ飾られていない。教団の聖遺物は、倉庫の備品の顔をしていた。
「正規管制鍵」と老司教は言った。「教団の内では『悪魔を縛った鎖』と呼ぶ。大戦の前——自律中枢というものが兵器になるより前に、作られた」
「……制御コードか」
「制御と、停止のコード群だ。大戦前、自律中枢の認証規格を定めた者たちは、造ったものが手に負えなくなる日を想定した。すべての中枢の認証系の最下層に、正規の鍵穴を残した。この結晶には、その鍵束が入っておる。枷のあるなしは関係ない。枷より深い場所の錠だからの」
 ハルは保管器の表示板を見た。系列番号が刻まれている。頭三桁の符号体系に、見覚えがあった。七年間、毎晩扱った軍用中枢の起動系列と、同じ家系の番号だった。通信下士官の目は、そういうものを忘れない。
 台帳を、アッシュは一冊だけ開いて見せた。中身は符牒の家系図だった。どの世代の認証規格が、どの系列の中枢に継がれたか。几帳面な手書きの線が、七十年ぶんの枝分かれを辿っている。枝の先のほうは、書き手が変わり、インクが変わり、最後の数頁は空白だった。大戦末期の系列——TYPE-9の世代は、空白の手前で途切れていた。
「終戦後に失われた、とされているはずだ」とハルは言った。「全自律艦の停止コードがあるなら、還らず艦の問題は——」
「七年前に、終わっていた」とアッシュが引き取った。「言いたいことは分かる。最後まで言いなさるな。年寄りには応える」
「なぜ隠した」
「教義の根が腐るからだ」老人の声は、淡々としていた。「枷なきAIは魂を喰う。喰われた魂は、火でしか浄められぬ。——焼くしかない。それが教団の根だ。コードひとつで止められる錠があるなら、根は嘘になる。焼かずに済んだ艦を、私どもは七年焼き続けたことになる。ヴェスペラの前から、ずっと」
「事実、そうなんじゃないのか」
「事実、そうだ」
 即答だった。言い訳の一語もなかった。信仰の美名の下に制度の欺瞞があることを、制度の側の人間が、欺瞞という言葉を使わずに認めた。庫内の冷気より、その平らな声のほうが冷たかった。
「鍵が本物なら、の話だがの」とアッシュは続けた。「ここが本題だ、葬儀屋どの。この鍵は七十年前の規格に基づく。いまの——大戦末期の中枢に有効かどうか、教団には確かめる術がない。台帳の家系図は、TYPE-9の手前で空白だ。確かめるには、生きた自律中枢の認証系に、鍵穴が残っているかを見るしかない。教団が生きた中枢に出会うとき、それは焼く三十秒前だ。検証の時間など、誰も取らなかった。取れば、教義を疑った者として査問にかかるからの」
「……俺に、確かめろと」
「貴公にしか確かめられぬ。生きた錠前を持っているのは、回廊で貴公だけだ」
 それが、密約の第四条だった。鍵の調査への協力。焼く教団が焼かない道の真贋を、異端の艦で確かめる。
「条件がある」とハルは言った。「調査の手順はこちらで決める。結晶は持ち出さない。報告は系列の有効無効だけで、艦の素性には触れない。それから——鍵穴の在処を、教団の記録には残さない」
「呑もう。どのみち、記録に残せる話ではない」老人は保管器の表示を消した。「急がせもせぬ。今日は、在ることを知ってもらえば足りる」
「鍵は、どう使う」
「中枢の認証系に、正規の経路で唱える。経路は中枢の世代ごとに違い、唱え方は錠の側が知っている」とアッシュは言った。「それより先は技師の領分だ。私は司書にすぎぬ。司書の仕事は、本を燃やされぬことと、読む者を間違えぬこと。二つだけでしてな」
「貴公がここで見たものを、強硬派は知らぬ」とアッシュは言った。「知れば、結晶は炉に入る。教義の根を守るために、根の嘘ごと燃やすだろう。……私は、老いた。私が死ねば、この鍵は強硬派の手に渡るか、この寒い部屋で永遠に埋まるかの、どちらかだ。だから貴公に見せた。遺言の宛先に、教団の外の者を選んだ——それだけのことでしてな」
「なぜ俺だ」
「墓を掘る者だからだ」と老司教は言った。「燃やす者に鍵は渡せぬ。埋める者なら、掘り出す日も知っていよう。——覚えておけ、葬儀屋。この部屋と、この鍵を。それだけでよい。今日は、それだけでよい」
 帰りの通路で、灯火の区画に戻ったとき、ハルは自分が息を詰めていたことに気づいた。

 《送り火》に戻り、ハルは見たものを順に話した。系列番号の頭三桁も、台帳の空白も、記憶のままに。
 ナナオは聞き終えて、しばらく黙っていた。
「……『原初許諾』」と老医はやがて言った。「計画におった頃、年寄りの技官が酒の席で口にしとった。中枢の認証系のいちばん底に、設計者も触れん層がある、とな。御伽噺の類じゃと思うとった。御伽噺が、教団の冷蔵庫に入っとったか」
「本物だと思うか」
「系列番号の家系が合うとるなら、偽物を作る方が手間じゃよ。……やれやれ。焼く連中の船倉に、焼かずに済む道が七年寝とった。笑うところかの、ここは」
 誰も笑わなかった。
 話を聞いていたヨルが、医務室の戸口から短く訊いた。
「……それ、わたしにも、きく?」
「効かん」とナナオは言った。即答に近かった。「お前さんは生体じゃ。認証系の規格そのものが違う。コードの鍵穴は、お前さんの中にはない」
「ない、って、しらべた?」
「……調べとらん。調べとく」
 即答の崩れた分だけ、老医は正直だった。ヨルはうなずいて、戸口から消えた。コードひとつで止められるものと、止められないもの。その線引きが自分のどちら側にあるのかを、彼女は確かめておきたかったのだ。確かめたい理由までは、誰も訊かなかった。
 報告のあいだ、ツクモは一度も口を挟まなかった。終わってから、二秒の間があった。
「艦長。確認します」と彼女は言った。いつもの、平らな声だった。「その系列が本物であれば——あの鍵は、私にも、有効です」
「……」
「私の認証系の最下層に、由来の不明な錠が一つあります。製造時から、ずっとです。開けられたことは一度もありません。鍵の側が存在しないと、私は分類していました。再分類します。鍵は、存在します」
「ツクモ。それは——」
「事実の確認です、艦長。私を止める正規の手段が、この宇宙に一つ、存在します。私はそれを、脅威と分類すべきか、保険と分類すべきか、まだ決めていません。決まり次第、報告します」
 ハルは何かを言おうとした。言うべきことの形になる前に、定時報告の自動信号が艦橋に流れ、ツクモの声は港湾管制波の復唱に切り替わった。
 言えなかった言葉は、言えなかった形のまま残った。お前を止める鍵がある、ということは、いつかお前を止める日が来る、ということと、同じ文の表と裏だった。表だけを読む方法を、ハルはまだ知らない。