第138話 埠頭の名前

 第四九二日、《送り火》はヴェスペラに再び入港した。
 名目は物資の追送だった。ナナオが買い直した医療品の残りと、与圧資材の不足分。実際それも降ろしたが、ハルがこの港に戻った理由は、帳簿のどの欄にも書けない種類のものだった。撃った艦の墓の軌道は、あの夜のうちに整えてある。整えていないのは、生きている側との帳尻だけだった。
 港は、直されつつあった。
 第三区画の跡は更地のまま区画整理が始まり、三つの艦級の規格が混ざった配管に、四つ目の規格が継ぎ足されていく。直す者の手際は荒く、早かった。流木の山で家を作った者たちは、家の直し方も流木のやり方でやる。桟橋の継ぎ目には、もう市の台が二つ三つ戻っていて、発行元のない通貨の値札が、何事もなかった顔で風化を再開していた。
 埠頭の突き当たりに、新しい壁ができていた。
 テネブラエの戦没者の壁と同じ思想の、もっと貧しい壁だった。船殻の鉄板を並べて磨き、名前は職人の彫りではなく、手書きの刻線で入れられていく。九百十七の名前は、まだ三分の一も埋まっていない。名簿に載ることを恐れて生きた者たちの名を、遺された者が一つずつ思い出しては、確かめては、刻んでいるからだ。名乗らずに死んだ死者の欄は、名前の代わりに住んでいた区画の番号だけが彫られていた。第三区画、女性、四十歳前後。それが一行の墓だった。
 壁の名前は、夜も増えた。
 照明の落ちた時間に、当番でもなんでもない誰かが来て、一行刻んで帰る。朝になると、刻線の数だけ灰の粉が壁の下に落ちている。名簿のなかった港が、名簿を作っている。死んでから初めて数に入る、という順序の残酷さを、誰も口にしないまま、鉄板は埋まっていった。
 ハルは壁から少し離れて立った。
 降ろした物資の受領票に判をもらいに来ただけの顔で、立てるだけ立っていた。壁の前の人々は、黒い艦の主を知っていた。何人かは目を逸らした。一人の老人が近づいてきて、深く頭を下げた。
「第九区画に、娘の一家がおる」と老人は言った。「火が逸れた側だ。……それだけ言いに来た」
 返す言葉を探すより先に、老人は背を向けて行った。礼を受け取る練習を、ハルはしてこなかった。
 そして一人の女が、足元の鉄屑を拾って投げた。
 鉄屑はハルの肩を掠めて、桟橋に落ちた。
「……あんたの艦が来た日に、火が来た」と女は言った。叫びではなかった。確かめる声だった。「あんたが杭を撃った夜に、うちの人は死んだ。あんたが火を引っ張ったから、第七は助かったと管制は言う。うちの人は第三にいた。——どの顔で、ここに立つ」
 ハルは、立っていた。弁明の言葉は持っていたが、持っていることと使うことは別だった。火を呼んだのは教団で、杭は港を救うためだった——どれも事実で、どの事実も、第三区画の女の夫を生き返らせない。女は二つ目を投げなかった。投げない代わりに、壁に戻って、刻みかけの名前の続きを刻んだ。それが答えだった。
「礼を言う者と、石を投げる者が出る」と、いつの間にか横に来ていた老管制官が言った。「両方とも正しい。両方とも正しいときは、黙って立っとくしかない。あんた、それが上手いな」
「……場数だ」
「だろうな」老人は受領票に判を捺した。「壁に名前を彫る鏨がな、足りんのだ。次に来るとき、何本か持ってこい。礼は言わん」
「ああ。礼の分は、こっちの帳簿につけない」
 ナナオは降ろした医療品を救護所まで運び、半日戻らなかった。戻ってきたとき、老医は上着を着ていなかった。訊くと、向こうの医者が一人しかおらんでな、とだけ言った。一人しかいない医者の診療所に、千八百の負傷者の続きがまだ通っている。上着一枚でどうにかなる数ではないことを知っていて、それでも置いてくるのが、あの男の処方だった。
 ヴェインは名簿の作業場に、照合の続きを届けに行った。テネブラエで仕上げてきた、旧同盟復員記録との突き合わせの写し。身元の知れなかった死者のうち十一人に、名前の候補がついた。彼は写しを渡し、判ももらわずに戻ってきた。十一人の中に知った名字があったのかどうかは、今度も誰も訊かなかった。
 その日、ギルド経由の通知が艦に届いた。撃破二十五号——収容艦AH-103の賞金について、教団の異議申立てが取り下げられ、仲裁裁定により減額の上、八〇〇万crの入金。凍結から四十四日目だった。取り下げの書類が誰の机を通ったか、通知はもちろん書いていない。灰色の地紋の取り決めが、最初の仕事をした——そう読める者は、回廊に数人しかいない。
 同じ頁に、月次の固定費一四五万。残高、九、〇〇三万。事変の前から数えて、艦の帳簿は八九〇万痩せた。痩せた分の行き先を、ハルは一行ずつ言える。言えることだけが、この商売で胸を張れる唯一の項目だった。
 撃破二十六号の行は、入金の欄が空白のまま確定した。係争宙域、管轄なし、賞金なし。タダ働きの一隻が、いちばんまともな仕事だった——と、ハルは帳簿の隅に書かなかった。書かずに、思うだけにした。帳簿に書いた言葉は経費になる。思うだけの言葉は、ならない。
「艦長」とツクモが言った。「本月の収支は、九十日ぶりの黒字です。要因は仲裁入金です。なお、黒字の要因が賞金の減額分の回収であることを、黒字と呼ぶかどうかは、語彙の問題です」
「……呼ばないでおけ」
「了解しました。呼ばないまま、記載します」
 夕刻、晩課の鐘が鳴った。
 いつもの刻限の、いつもの打ち方だった。配給の列が崩れ、市の台が店じまいをし、子供が桟橋を駆けて戻っていく。あの夜、避難の合図を兼ねて長く打たれた鐘が、ただの夕方の鐘に戻っている。鐘の音の中で、壁に名前を刻んでいた手が一つ、手を止めて頭を垂れ、また刻み始めた。直る、というのはたぶん、こういう速度のことだ。誰も忘れない速度で、誰も立ち止まりきらない速度。

 夜、医務室で、ヨルの報告があった。
 回復に十日かかった。十日かけて、彼女は自分の帳面に何かを書き溜め、報告の言葉を自分で選んでいた。聞くのはハルとナナオ。記録はヨルの帳面だけ。それが彼女の決めた様式だった。
「あの艦の、さいご」と彼女は言った。「さいごまで、いってた。『入港許可を求む』。……でも、いちばんさいごの、すこしまえ。ことばが、かわった」
「変わった?」
「『入れてください』って」
 符丁ではなかった。符丁は様式で、様式の言葉は変わらない。変わったのなら、それは様式の外から出た言葉だ。七年打ち続けた定型文の、最後の手前で。
「……それから」とヨルは続けた。帳面を見ながら、一語ずつ。「ありがとう、って、きこえた。たぶん、ききまちがい。杭の、おとと、かさなってたから。たぶん」
「たぶん、が二回じゃの」とナナオが静かに言った。
「……うん。二回いれた。じぶんで」
 聞き間違いかもしれない言葉を、聞き間違いの印をつけたまま帳面に残す。それが、この一年で彼女が覚えた誠実さの形だった。
 ハルは何も言えなかった。許可を出せなかった艦に、礼を言われる筋合いは、どこにもない。筋合いのない礼ほど、長く残る。あの艦は何に礼を言ったのか。杭にか。七年ぶりに様式の外から届いた、撃つために近づいた艦の気配にか。答えの出る問いではなく、出ない問いの置き場所なら、彼の帳簿にはもう頁がある。
「ほうこく、おわり」とヨルは帳面を閉じた。
「ああ。……よく、最後まで聞いた」
「わたしが、きめたから」
 彼女は寝台に戻りかけ、戻る途中で、ふと足を止めた。何かを耳で追う仕草だった。艦内は静かで、聞こえるのは空調と、機関の低い唸りだけだ。
 ナナオが顔を上げた。ヨルはまだ、耳で何かを追っていた。
「どうした」
「……いまの、きこえた?」
「定時報告の音か。いつもの音じゃろう」
「うん。いつもの、ことば。いつもの、こえ」彼女は首をかしげた。かしげたまま、自分の耳を疑う顔と、疑いきれない顔の間で止まった。
「ねえ、ドク」
「なんじゃ」
「ツクモの声——すこしだけ、ずれてる」