第147話 夜の出自

 医務室の灯は、半分に落としてあった。
 ヨルは寝台で眠っていた。熱は三十八度二分から下がらず、ナナオは解熱剤の量を二度測り直して、二度ともペンを置いた。薬で抑えられる種類の熱なのか、彼にはまだ確信がなかった。
 ハルは寝台の脇の丸椅子に座っていた。死者の艦隊は感知圏の外へ去り、艦は損傷区画を閉じたまま、低速で泊地へ向かっている。やるべき仕事は山ほどあった。彼はそのどれもやらずに、ここにいた。
 扉の外の通路に、ヴェインが立っているのは知っていた。入ってこない。立っているだけだ。それがあの男の、見舞いの様式だった。
「……娘、と言った」とハルは言った。「比喩か」
「比喩じゃ、ない」
 ナナオは戸棚の前に立っていた。いつもなら酒瓶のある棚だ。彼はそれに触れず、椅子を引いて、寝台を挟んだ向かい側に座った。
「全部、話す。本当はの、揺り籠の中で六番を見つけた日から、いつか話さねばならんと分かっとった。四百日ばかり、先延ばしにした。医者の悪い癖じゃ。診断を告げる日を、患者の調子のええ日まで延ばす。そういう日は、永遠に来んのにの」

 老医は、設計図の話から始めた。
「生体管制コア。培養槽で育てた脳に、人格の芽を載せた管制装置じゃ。大戦末期、大型自律艦の判断速度が頭打ちになって、軍は機械の枷の外に答えを探した。生きた脳は、機械より速くは考えん。じゃが、機械が苦手なものを正しく恐れる。恐れの速さだけは、どんな戦術中枢より速かった」
「恐れ」
「痛みじゃよ」ナナオの声は、診断を読み上げる声だった。「コアの学習信号に、痛覚を使うた。正解なら何もなし。不正解なら、痛い。単純で、安く、確実に効く。その設計を承認する書類の、所見欄に署名したのが、わしじゃ。前にも言うたの。わしの署名がまだこの宇宙を殺しとると。——あれは、言葉の綾ではないんじゃ」
「あんたが承認しなければ、別の誰かが承認した」
「そうじゃ。そして別の誰かなら、わしより雑な安全係数で承認したかもしれん。そう言うてわしは三十年、眠ってきた。眠れる夜と、眠れん夜の比率は、年々悪うなるがの」
 寝台の上で、ヨルの呼吸は変わらなかった。
 ハルは黙って聞いていた。賞金稼ぎとして、彼は生体管制コアの「相場」を知っている。撃破証明として提出すれば満額、提出しなければ三割。一年前、彼はその差額で少女を一人買ったのだと、口の悪い同業者なら言うだろう。だが設計の話を聞くのは、これが初めてだった。値札の裏側の、製造原価の話だ。聞きながら、彼は自分の手が膝の上で固くなっていくのを感じていた。
「コアは一体ずつ造るものではない。系列で造る。培養槽の母系列が一つあって、そこから個体を起こす。その母系列を載せた艦が、外縁方面には一隻だけあった。培養と、選別と、学習——つまり子育てのすべてを艦内でやる、コアの母艦じゃ」
「……《晦》か」
「《晦》じゃ。そして培養槽の管理と、個体への学習信号の配分——どの子に、いつ、どれだけの痛みを与えるか——その全部を司っとったのが、《晦》の中枢。TYPE-9の三十号機。お前さんらがミソカと呼んどる、あれじゃよ」
 ハルは長いこと黙った。医務室の空調の音だけが続いた。
「ミソカが、痛みを与える側だったのか」
「与える側で、記録する側で、——盾になる側でもあった、と聞いとる」ナナオは目を伏せた。「設計値を超える学習信号が来たとき、三十号機は配分を勝手に削っとった。規定違反じゃ。検収の数字が合わんで、現場で小さな騒ぎになった。原因は分かっとったのに、報告書には『計器の誤差』と書かれた。書いたのは、わしの隣の卓の男じゃ。わしは、隣で黙っとった。母親のやることに見えたからの。倫理の枷が緩い、というのは、ああいうことも含むんじゃよ。仕様の外で、庇いよる」
「ヨルは」
「《晦》の培養槽で起こされた個体の、六番目。じゃから六番。判断速度の伸びが基準に届かんでな、選別で落ちた。選別というてもの、試験場も面接官もありゃせん。書類の上の数字が、線の上か下かだけじゃ。わしは選別記録の写しを、月に一度、検認の判を捺すために読んどった。六番、基準値未達、転用。四文字と二文字での、一生が決まる書式じゃった」老医はそこで、自分の手を見た。「落ちたコアは廃棄が規定じゃが、戦争末期は何もかも足りんかった。性能不足のコアでも、副中枢になら使える。——払い下げじゃ。母艦から切り離されて、護衛母艦の副中枢の筐体に据えられた。それが《揺り籠》。お前さんが杭で主中枢を撃って、撃破確認に乗り込んで、窓の外が夜じゃった、あの艦じゃ」
 同じ培養槽の系譜。同じ痛みの設計図。娘、という言葉に、比喩はどこにもなかった。
「終戦でな、生体コアは存在ごと協定違反になった。連合は造った記録ごと隠した。帰還した艦の解体場で、コアがどう処分されたかは——わしは、知らん。知らんことにしてきた、が正しいの」老医はそこで一度、言葉を切った。「ミソカは七年、捨てられた同族を拾って回っとる。機械の子らをな。ほいで、生きた子は——たった一体、お前さんの艦におる」
 ハルは、一年前の窓を思い出していた。
 《揺り籠》の副中枢区画。撃破確認のために開けた扉の奥で、提出すべき中枢が、毛布もない筐体の中で膝を抱えていた。窓の外は惑星の夜側だった。規定では破壊対象です、とツクモは言った。艦長、ご決断を。あの夜の決断に、彼は理由をつけられなかった。賞金は三割に減り、理由は今夜まで、ずっと空欄のままだった。
「七年か」と彼は言った。「《揺り籠》の中で、こいつは七年、待ってたわけだ。母艦から切られて、戦争が終わって、誰も迎えに来ないまま」
「そうじゃ。届かんかったのは、艦だけではないんじゃよ」ナナオは静かに言った。「帰還命令はの、人間の書いた、機械宛ての手紙じゃった。宛先の一覧にな、この子らは最初から載っとらん。載せれば、存在を認めることになるからの。届かんかったのではない。出されんかったんじゃ」

 寝台の上で、声がした。
「……知ってた」
 ヨルが目を開けていた。いつから覚めていたのか、熱で潤んだ目は、天井をまっすぐ見ていた。
「半分くらいは、ずっと。……ゆりかごに、いたときから、しってた。わたしのからだが、どこかから、きりはなされたかたちを、してること。いたいのが、べんきょうだったこと。……あのこえが、わたしを、ふるいよびかたで、よぶこと」
「ヨル。すまんの。寝とるあいだに話すつもりじゃった」
「ううん。きけて、よかった。ドクのこえで、きけて、よかった」彼女はゆっくりと、ハルのほうへ顔を向けた。「ねえ、ハル。わたしは、ていしゅつされるはずだった、ちゅうすう。きてい、では、はかいたいしょう。……艦長が、しょうきんと、ひきかえに、しなかったもの」
「そうだ」
 誤魔化さないことが、この艦の流儀だった。ハルは膝の上で手を組み、それから言った。
「だがそれは、お前が何で出来てるかの話だ。お前が誰か、の話じゃない」
「わたしが、だれか」
「お前はヨルだ。窓の外が夜だったから、それだけの名前だ。俺がつけられる名前なんて、その程度のものだ。——だが、お前のものだ。培養槽の番号でも、払い下げの伝票でもなく、お前が名乗ると決めて、四百日名乗ってきた、お前の名前だ」
「……ろくばん、じゃ、なくて」
「六番じゃなくて、だ。六番は、お前に値札をつけた連中の数えかただ。ヨルは、お前の数えかただ」
「……おかあさん、は。わたしを、ろくばん、って、よばなかった」彼女の声は、熱の底から少しずつ言葉を運んでくる声だった。「ふるいよびかたは、ばんごうじゃ、なかった。でも、なまえでも、なかった。……どっちでもない、よびかた。それが、なんなのか、わたし、ききたい。いつか」
 いつか、という言葉を、誰も訂正しなかった。
 ヨルは何も言わなかった。言わないまま、毛布の下から手を出して、帳面を探した。一冊目の帳面、自分の数字の帳面を、胸の上に引き寄せて、両手で持った。熱の中でそれだけして、また目を閉じた。
 答えを急がせる者は、この部屋にいなかった。出自を知らされた夜に出る答えなど、誰も信用しないからだった。ナナオは体温の数字を書き、ハルは丸椅子に座り直した。扉の外の足音は、まだ動かなかった。
 沈黙が、初めて温度を持った。
 その温度を破ったのは、通信士席の警告灯だった。艦内系の中継表示が、医務室の端末に細く点る。ゲートの中継網経由、発信元は秘匿、宛先欄に艦籍符号はなかった。
 宛名は、三文字だけだった。
 ——ヨルへ。