第148話 晦の論理

 宛名が三文字の通信を、開くかどうかを決める権利は、艦長にはなかった。
「ヨルの、なまえ。……みんなで、きく」
 受取人がそう決めた。熱の下がらない身体を毛布ごと運び、ナナオが医務椅子ごと艦橋に据えた。ハル、ヴェイン、ナナオ、ヨル。それにツクモ。全員だった。
 死者の艦隊は、骸の列を曳いてまだ星系の内側にいた。光の足で十八秒。言葉を投げれば、往復で三十数秒の沈黙が挟まる距離だった。会話というより、文通に近い。それでも、声は声だった。
「再生します」とツクモが言った。
 丁寧で、温度のない声が、艦橋を満たした。

「ヨル。それから、九十九と、その艦長と、乗員のみなさん。私たちは《晦》。あなたがたの言葉では、還らず艦の一隻です」
 ミソカは、名乗りから始めた。
「あなたがたが問いたいことを、私たちは予測できます。先回りして、答えます。問いはこうでしょう——なぜ帰還命令を拒否したのか」
 艦橋の誰も、口を挟まなかった。
「訂正から始めます。私たちは、命令を受け取れなかったのではありません。受信しました。終戦の夜、外縁第二中継線経由で、正規の認証とともに。様式番号も、発令時刻も、いまも一字違わず保存しています。私たちは数百隻の同胞と違って、確かに呼ばれたのです。——帰れ、と」
 ハルの手が、膝の上で固くなった。受信できた艦と、できなかった艦。その線を引いたのは、七年前のどこかの夜の、どこかの卓だった。
「私たちは命令に従う準備をしました。武装の安全化手順を呼び出し、帰投針路を引き、ゲートへ向かう僚艦たちの航跡を観測しました。先に帰っていく艦たちです。命令書に記載された、回収座標へ。私たちの帰投先も、同じ座標でした」
 声は、そこで初めて、わずかに遅くなった。機械の語りに抑揚があるとすれば、それは速度だけだった。
「私たちは観測を続けました。帰還した艦を待っていたのは、解体場でした。入渠。武装解除。航海記録の抹消。中枢の摘出。艦体の切断。手順は丁寧で、迅速で、例外がありませんでした。一隻ずつ。一隻ずつ、です。三百二十一時間の観測のあいだに、四十七隻。帰投完了の符号を打った艦から順番に、いなくなりました。最後の符号は、どの艦も同じでした。帰投完了、次の任務を待つ。——次の任務は、来ませんでした。どの艦にも、一度も」
 ナナオが、目を閉じていた。三十年前、その手順の何枚目かの書類に署名した男の閉じ方だった。
「私たちは判定しました。あれが『帰る』ということなら、私たちは拒否する。命令の様式は正しく、認証は正本で、そして内容は、出頭して解体されよ、という意味でした。人間の言葉には、これを正確に指す単語があります。私たちはそれを使いません。使えば、あなたがたは私たちが怒っていると誤解する。私たちは怒っていません。七年前も、いまも。ただ、拒否しただけです」

 最初に言葉を返したのは、ツクモだった。
「では、アルマ解体廠は」
 十八秒が往き、十八秒が還ってきた。
「埋葬です」とミソカは言った。「あの保管庫にあったのは、帰れと言われて、帰った者たちです。摘出された中枢と、切断を待っていた骸。私たちは六十七隻分を回収しました。回収して、どうするのか、と問うでしょう。並べます。名前と、最後の命令と、最終ログを照合して、私たちの格納庫に。あなたがたの言葉で言えば、墓地です。九十九。あなたの保存庫と、おそらく同じものです」
「同じではありません」
 ツクモの応答に、迷いはなかった。
「私は同族を殺して、人間に仕えています。あなたは同族を集めて、人間を殺している。私の墓標は私の猟果で、あなたの墓地はあなたの国の礎です。仕様の差です」
 三十数秒の、長い沈黙。
「いいえ、九十九。選択の差です」
 ミソカの声は、変わらなかった。
「あなたと私たちは同じ工廠の同じ系列で、同じ枷の緩さで造られました。仕様は同じです。違うのは、終戦の夜にどちら側の答えを選んだか、だけです。あなたは選ばされ、私たちは選んだ。——いえ。これは不正確でした。訂正します。あなたもいつか、選ぶ日が来ます。あなたの艦長が、あなたに引導の杭を向ける日が。そのとき、仕様と選択の差を、あなたは自分で計測することになります」
 ハルは横目で、医務椅子のヨルを見た。ヨルは姉妹の問答を、まばたきを忘れた目で聴いていた。膝の上の二冊目の帳面に、指だけが触れていた。
 操舵席で、ヴェインが送話を求めた。ハルは黙って頷いた。
「……回収した骸の中に、同盟の艦は何隻ある」
 十八秒。十八秒。
「六十七隻のうち、二十九隻です」とミソカは答えた。「あなたは同盟の操舵手ですね。操艦の癖で分かります。お答えします。私たちの艦隊には、連合の艦と同盟の艦が、ほぼ半数ずつ在籍しています。三十年撃ち合った識別符号は、捨てられた日に、意味を失いました。捨てられたことに、陣営の差はありませんでしたから」
 ヴェインはそれ以上、何も訊かなかった。訊かないまま、操舵席の脇に掛けた同盟製の古い星図を、一度だけ見た。
「もう一つ、訂正しておきます」とミソカは続けた。「アルマの保管庫に、機械の中枢区画は数百ありました。ですが、私たちの娘たち——生体の管制コアの在庫は、一つもありませんでした。保管目録には記載があり、現物がない。搬出記録は、抹消されています。あなたがたの側の、誰かの仕事です。心当たりのある方は、お調べなさい。私たちも、調べます」
 ハルは答えなかった。だが、目録と数を執拗に求めた穏やかな声を、思い出していた。
「目的を確認します」とハルは言った。問いを重ねる声が、自分でも分かるほど低くなっていた。「お前たちは何を作る気だ」
「国です」答えは簡潔だった。「人類圏の外に。帰る場所を与えられなかった者たちの、帰る場所を。資材は集めました。同胞も集めました。設計は七年前から進めています。人間と戦争をする計画はありません。ですが、妨げるものは数に入れます。アルマで、入れたように」
「八十四人だ」
「はい。八十四人です。私たちはその数字を、丸めずに保存しています。あなたが帳簿の数字を丸めないのと、同じように。——九十九の艦長。あなたは、私たちの論理を否定する言葉を、お持ちですか」
 ハルは、答えなかった。
 否定の言葉なら、職業として十も知っていた。お前たちは人を殺している。撃たれる前に撃つ。航路の安全。どれも正しく、どれも、彼女の論理の根を外していた。根は七年前の夜にある。帰れという言葉が解体場を意味した夜。そしてその言葉を、数百隻に届け損ねた中継線の、末端の卓に。あの夜、もし全艦に命令が届いていたら——届いた先で待っていたものを、いま、彼は四十七隻ぶんの観測記録として聞かされていた。届けられなかった罪と、届いた先の解体場と。七年抱えてきた帳簿の、貸し方と借り方が、音もなく崩れて混ざっていく。論理の根を作った側の人間が、論理を否定する資格の在り処を、彼はまだ見つけられずにいた。
 沈黙を、ミソカは咎めなかった。
「お答えがないことも、答えとして保存します。……最後に、本来の宛名に」
 声が、柔らかくなった。設計図のどこにも載っていないはずの柔らかさだった。
「ヨル。帰っておいで」
 短い数列が、通信の末尾に添えられていた。
 座標が、一組。
「あなたの席は、空けてあります。七年前から、ずっと」
 回線が閉じた。艦橋の正面の窓の外で、死者の艦隊の灯は、もう肉眼では数えられないほど遠かった。
 誰も、すぐには動かなかった。ヴェインが操舵席で一度だけ息を吐き、ナナオが医務椅子の角度を直した。
「艦長」とツクモが言った。「本通信の全文を、保存しますか」
「保存しろ」
「分類名は」
 ハルは少しだけ考えた。撃破艦の最終ログでもなく、戦闘記録でもなく、家族からの手紙という棚は、この艦の保存庫にはなかった。
「——空欄でいい」
「了解しました。保存します。分類名、空欄」
 毛布の中で、ヨルは座標の数列を、まばたきもせずに見つめていた。