第151話 小さな艇
第三格納庫の連絡艇が一隻、〇四二〇に発進した。
ハルがそれを知ったのは、〇六〇〇の定時報告だった。
「報告します。本艦の現在位置、死者の艦隊の航跡上、距離は感知限界の縁。触接、維持。それから——第三格納庫の連絡艇一号が、〇四二〇に発進しています。搭乗者、一名」
「……誰だ」
「索敵席の管制補助権限で、発進手順が実行されました」
寝台から艦橋までの通路を、ハルは走らなかった。走らない自分に気づいて、走れば認めることになる予感の中身を、考えないことにした。索敵席は空だった。端子は丁寧に巻いて置かれ、その上に帳面の頁が一枚、切り取って残されていた。
拙い、間隔の広い文字で、二行。
——きかなければ、ならないことが、あります。
——もどります。
「ツクモ。なぜ起こさなかった」
「発進は正規の権限と正規の手順で行われました。阻止する規定がありません。艦長の起床を要する事態の定義にも、該当しませんでした」声は平坦だった。「補足します。艇の針路は、保存されている座標と一致します。《晦》が、ヨルに送った座標です」
艦橋に、ナナオとヴェインが入ってきた。書き置きの頁を、ナナオが黙って読み、ヴェインに渡した。操舵手は二行を長く見て、何も言わずに返した。
「『きかなければ、ならないこと』……あの夜の続きじゃな」とナナオが言った。「母親の、ふるいよびかたの意味。いつか、ききたい、と言うとった。——いつかが、今日になっただけじゃよ」
「黙って出たことの言い訳にはならない」
「ならんの。ならんが、あの子の側の理屈は分かる。訊けば、止められる。止められれば、従ってしまう。四百日かけて覚えた従い方じゃ。……従わずに済む方法を、あの子は一つしか知らんかった」
黙って出る、という方法を。誰に教わったわけでもなく、この艦の人間たちの、訊かないことで回る流儀の、いちばん不器用な真似事を。ハルは帳面の頁を畳んで、胸の物入れに収めた。叱る言葉の支度は、帰ってきてからの仕事だった。帰ってくる、という前提を、彼は手続きのように固定した。前提を疑う計算は、全部後回しにした。
「現状を述べます」とツクモが続けた。「艇の発進から一時間四十分が経過。艇の巡航速度に対し、本艦は推進系七割で優速ですが、死者の艦隊の後衛線まで、艇のほうが先に到達します。追跡は推進剤の二十三パーセントを消費し、艦隊との再接触の危険を伴います。最適解を提示します。コアは《晦》に回収されたものとして、戦術データを再構成することを推奨します。艦長、ご決断を」
艦橋の温度が、一度下がった。
悪意はなかった。一片もなかった。四百日同じ食堂で飯を食った相手を、回収された資材として帳簿から落とす計算を、この声は今朝も平然とやる。悪意があれば、まだ怒りようがあった。
「却下だ」
「では次善案を。艇との通信封鎖を解除し、説得を——」
「ツクモ」ハルの声が低くなった。「あれは積み荷じゃない」
沈黙があった。計器の明滅だけが、規則正しく続いた。
「……訂正します。乗員一名が、単独で離艦中です」
「そうだ。それだけの話だ」
ナナオが袖口に手を入れかけて、止めた。古い計時器の冷たい背に指先で触れ、触れただけで出さなかった。いまの沈黙は、提案を引っ込めるまでの間は、わしの知っとるあれより半拍長くなかったか——そう思い、思った自分を疑い、どちらの疑いも紙に書くことにして、顔には出さなかった。
ヴェインが操舵席に着いた。
「舵、もらう」
追跡の針路を、ツクモは三本引いた。最短、最速、最節約。ヴェインはどれも使わなかった。
「燃料は加速に使うもんじゃない。やり直しに使うもんだ」と彼は言った。「やり直さん針路を引けば、二十三は要らん」
操舵手の引いた線は、教本のどの頁にもない形をしていた。死者の艦隊が骸の列を曳いて通った航跡には、曳航デブリの掃き残しが点々と続いている。その質量の影を縫って、加速を一度だけ、長く、浅く当てる。あとは慣性に艦を預け、修正は姿勢制御の呼気ほどの噴射だけで済ませる。推進剤の見積もりは、二十三から十六に落ちた。
「省いた七パーセントは、何に使う」
「帰りだ」とヴェインは言った。「迎えに行く艦が、帰りの分を残さんでどうする」
艦は静かに加速した。感知網の先で、ヨルの艇の小さな反応が、まっすぐに進んでいた。
「……針路に、迷いがない」操舵席で、低い声がした。「補正の癖も出とらん。腹で切っとる。——教えたとおりの、ええ舵だ」
褒めているのか呻いているのか、判別のつかない声だった。ハルは通信席で、艇への呼出を三度打った。応答は、三度目にだけ返ってきた。音声ではなく、文字で、一行。
——きいたら、もどります。
それきり、艇は沈黙した。
追跡の途中、ナナオが通信席の脇に立った。
「妙なもんじゃの」と老医は言った。「わしは三十年、親のやることを隣の卓で黙って見とった側じゃ。今日は、追いかける側の艦におる」
「親、か」
「向こうは七年待った親で、こっちは四百日の親じゃ。年季では負けとる」ナナオは感知網の小さな輝点を見た。「年季で決まるもんなら、の話じゃがな」
ハルは答えなかった。親という言葉の置き場所を、彼はまだ自分に許していなかった。許す資格の計算を始めると、いつも途中で帳簿が合わなくなった。賞金の三割と引き換えに連れ帰った、という最初の行が、どうしても消えないからだった。消えない行の上に四百日分の行が積まれて、帳簿はもう、最初の行だけでは読めない形になっている。それでも、彼は親と名乗ったことがない。名乗らないまま、いま、艦一隻で追いかけている。
四時間後、死者の艦隊の後衛が見えた。
駆逐艦級が四隻、骸の列の最後尾に、きれいな間隔で面を作っている。誰何はなかった。警告射撃もなかった。四隻は《送り火》の接近に対して、ただ陣形の密度を上げ、それ以上は何もしなかった。線を引いて見せただけだ。ここから先は艦隊の内側だ、と。
「後衛の四隻のうち一隻は、アルマで観測した個体です」とツクモが言った。「旧同盟の護衛駆逐艦。会戦のあいだ、艦隊の右舷前方の定位置を一度も崩さなかった波形です。……几帳面な艦です。八年前の私たちの軍にも、ああいう艦がいました」
私たちの軍、という言い方を、ハルは聞き流さなかった。聞き流さなかったが、訂正もしなかった。三十年前、彼女が僚艦と呼んだものを全て沈めたことを、この艦の乗員はもう知っている。
そしてヨルの艇に対しては——何もしなかった。
小さな艇は後衛線の正面を、減速もせずに通過した。四隻の射界が艇を順々に舐め、舐めただけで送り出した。閉じた門が、艇の幅だけ開いていた。
「……読まれてる」とハルは言った。「最初から、全部」
「同意します」とツクモが言った。「後衛の配置は、艇を通し、本艦を止める形に最適化されています。この配置は本日のものではありません。少なくとも四十時間前——触接を開始した時点から、この形です。《晦》は、ヨルが来ることを、私たちが追うことを、予測した上で待っています」
「迎えに出もしないでか」
「迎えは、座標です。八年前から空けてある席に、迎えの様式は不要なのだと思います」
《送り火》は後衛線の手前、光学の届く距離で停止した。それ以上進めば交戦になり、交戦になれば、迎えに行く艦が標的になる。ヴェインは操舵桿に手を置いたまま、噴射を全て止めた。艦は闇の中で、息だけをしていた。
「ナナオ。医務室の支度を頼む。戻ったら、たぶん熱を出す」
「もう温めとるよ」と老医は言った。「毛布も、白湯もの。……戻ったら、の支度しか、わしにはできんでの」
誰も、戻らなかったら、の話をしなかった。しないことだけが、艦橋の全員で共有できる祈りの様式だった。
光学望遠の画面の中央で、骸の列の奥に、《晦》の艦体が横たわっていた。全長六百メートル。左舷の縫航機関部に、こちらの杭が一本、刺さったまま残っている。その巨体の腹で、格納庫の扉が音もなく開いた。誘導灯も、信号もなかった。ただ、開いた。
ヨルの小さな艇は、一度だけ姿勢を直し、それから自分の意思の速度で、開いた闇の中へ進んでいった。
艇の灯が、母の艦に、ゆっくりと呑み込まれていく。
扉が閉じた。
感知網から、艇の反応が消えた。残ったのは骸の列と、線を引いたまま動かない後衛と、息を殺した一隻の艦だけだった。