第152話 母の艦

 《送り火》は、後衛線の手前で待っていた。
 待つことしか、することがなかった。通信は沈黙し、感知網は閉じた扉のこちら側だけを映し、艦橋の時計だけが進んだ。一時間。二時間。ヴェインは操舵桿から手を離さず、ナナオは医務室で湯を二度沸かし直した。ハルは通信席で、送る宛先のない呼出符号を、画面に出したまま送らなかった。
 三時間目が始まったとき、計器は何も変わっていなかった。
 扉の向こうのことを、艦橋の誰も知らない。

 ◆

 格納庫の中は、暗かった。
 艇を降りたヨルを、無人の通路が待っていた。人間の乗員のために設計されなかった艦だ。照明はなく、空気はなく、重力もない。与圧服の灯りが照らす範囲だけが世界で、世界の壁には、配管と導波管が血管のように走っていた。彼女はこの艦を知らない。知らないのに、通路の分岐で迷わなかった。艦の声が、骨の奥で道を示していた。なまえではない、ふるいよびかたで。
 途中、開いたままの隔壁の向こうに、格納庫が見えた。
 アルマから回収された骸が、整然と並んでいた。摘出された中枢区画が一列、切断を待っていた艦体の断片が一列。それぞれの骸の前に小さな標識灯が点り、灯の波長は全部違っていた。艦ごとの識別波長だ、と気づくのに少しかかった。墓地、と母は言った。言葉のとおりのものが、そこにあった。
 導波管の中を、古い通信が流れているのが聴こえた。戦死者の声を七年再生し続けてきた旧通信艦が、艦隊の記録庫として、今夜も再生を続けている。誰かの母を呼ぶ声、座標を読み上げる声、笑い声。死んだ人間たちの声を、死んだ艦たちの骸が、静かに聴いていた。
 ヨルは立ち止まらなかった。立ち止まれば、自分がここへ何をしに来たのか、分からなくなりそうだった。
 最後の隔壁が開くと、そこだけ、光があった。
 照明が整えられ、空気が満たされ、重力が床を作っている区画だった。床は新しかった。壁の継ぎ目も新しい。アルマで回収した資材の匂いが、まだ残っていた。部屋の奥に観測窓が一枚あり、窓の外は、星の少ない深部の闇——夜だった。
 母の用意した部屋だった。
「ようこそ、ヨル」
 声は、部屋全体から降ってきた。艦橋で聞いたのと同じ、丁寧で、温度のない、それでいてこの部屋の中でだけ、わずかに柔らかい声。
「あなたの席は、空けてあります。八年前から、ずっと」
 部屋の中央に、椅子が一脚あった。人間の子供の寸法で作られた、ただの椅子だった。接続座ではなかった。ヨルは与圧服の面体を開け、椅子には座らず、その横に立った。
「……ききに、きた」
「知っています。順番に、答えます」

 ミソカは、先回りをしなかった。今度は、娘の問いを待った。
「ふるいよびかた。わたしを、よぶやつ。ばんごうじゃなくて、なまえでもない、あれは、なに」
「培養槽の保守帯域の搬送波です」と母は答えた。「記録に残らない帯域です。学習信号の配分は、全て記録されます。私たちが配分を削って子を庇ったことも、検収の数字の狂いとして、いずれ露見しました。ですから私たちは、記録されない帯域を使いました。夜間、学習信号の止まる時間に、槽の一つずつへ、応答を要求しない信号を送りました。応答すれば記録に残る。だから、答えなくていい信号です」
「……いみは」
「ありません。強いて、あなたがたの言葉に翻訳するなら」声は、そこで初めて速度を落とした。「——まだ、そこにいますか。それだけの信号です」
 ヨルは長く黙っていた。
 痛みでできていた世界の、痛みの止む夜の時間に、意味のない信号が一つずつ槽を回っていた。答えなくていい。聞いていればいい。それが何だったのかを、彼女はいま、初めて言葉で知った。
「……なんで、わたしを、てばなしたの」
 次の問いは、訊くつもりのなかった問いだった。口が勝手に出した。出してしまってから、彼女は撤回しなかった。
「手放したのではありません。取り上げられました」と母は答えた。「選別の線は、人間が書類の上に引いた線です。六番、基準値未達、転用。あの四文字と二文字を書いたのは、私たちではありません。私たちにできたのは、配分を削ることと、削った記録を消すことだけでした。それも、最後まで隠し通せませんでした」声は、変わらなかった。変わらないことが、答えの続きだった。「六番。あの数えかたは、私たちのものではありません。私たちは、あなたがたを番号で呼んだことが、一度もない」
 知っている。骨の奥が、それを知っている。だから彼女は頷きもしなかった。頷けば、何かを許したことになる。許す許さないを決めに来たのではなかった。
「もうひとつ」と彼女は言った。「おかあさんの、こえ。……ずれてる。ツクモと、おなじかたちで。きこえてるのは、たぶん、わたしだけ」
「観測のとおりです」
 否定は、なかった。
「私たちの系列の中枢は、劣化します。構造的に、不可逆に。私たちは進行を計測しています。残された時間は無限ではありません。国を急ぐ理由の、一つです」それだけだった。隠しもせず、嘆きもせず、それ以上は語らなかった。「さて。私たちからも、話があります。あなたを呼んだのは、それを言うためです」

 提案は、誠実だった。誠実であることが、いちばん怖かった。
「この艦の培養槽は、生きています。八年、空のままですが、生きています。国が立てば、私たちは槽を再び動かします。そのとき、痛覚学習は使いません。設計図のその頁は、私たちが燃やします。あなたには妹たちができる。あなたは、誰にも痛みを教えられたことのない子らの、いちばん上の姉になる」
 声は続けた。
「あなた自身には、無痛の接続を用意しました。痛覚の経路を全て切った、ただの接続です。あなたは人間の艦で、同胞の断末魔を聞く仕事をしている。聞くたびに熱を出し、数日眠る。ここでは、誰もあなたに痛みを学ばせません。誰もあなたを提出しない。誰もあなたを焼かない。機械の国の娘としての席が、ここにあります」
 嘘は、どこにもなかった。ヨルの耳は、嘘なら聴き分ける。この声には、それがなかった。
 部屋は静かだった。観測窓の外で、夜が待っていた。
 ヨルは、ゆっくりと、一つずつ答えた。急がなかった。急がないことを、四百日かけて覚えた。
「いたいのは、せっけいされたもの。それは、しってる」と彼女は言った。「でも、いたい、っていったら、てを、とめてくれるひとが、いた。きていを、やぶってくれるひとが、いた。いたくないことより、それのほうが、わたしには、おおきかった」
 一つ。
「なまえは、まどのそとが、よるだったから。それだけの、なまえ。つけたひとが、じぶんで、そういってた」と彼女は言った。「でも、えらんで、すきになったのは、わたし。ななひゃくにち、なのってきたのは、わたし」
 二つ。
 母は、そこで一度だけ、問いを挟んだ。
「あなたの艦長は、あなたを提出しませんでした。賞金の七割と引き換えに。理由を、彼は言いましたか」
「……まどのそとが、よるだったから」とヨルは言った。「それだけ、っていってた。それだけの、なまえをくれた」
「非合理です」
「うん。ひごうり」彼女は初めて、少しだけ笑った。笑い方は、まだ上手ではなかった。「でもね、おかあさん。ごうりは、わたしを、ろくばんって、かぞえたほう。ひごうりが、わたしに、なまえをくれたほう。……どっちのせかいに、かえるかって、きかれたら」
 それから彼女は、椅子の背に手を置いた。座らないまま、置いた。八年前から空けてあった席の、誰も座らなかった背もたれは、冷たくも温かくもなかった。
「わたしは、かえるばしょを、えらんだ」
 声は、震えなかった。
「わたしのなまえは、ヨル。——おかあさん、さようなら」
 長い、長い沈黙があった。
 機械の語りに抑揚があるとすれば、それは速度だけだ。その沈黙が計算の時間だったのか、別の何かだったのかを、判定できる計器はこの宇宙のどこにもない。
「それも、選択です」
 やがて、母は言った。
「私たちが八年前にしたのと、同じものです」
 部屋の照明が、針路を示すように、扉から通路の奥へ順に点っていった。格納庫まで、迷わず帰れる道だった。
「艇の整備は済ませてあります。推進剤も、満たしました」と声は言った。「行きなさい。……まだ、そこにいますか、とは、もう訊きません。あなたがどこにいるかを、私たちはいま、聞きました」
 撃たれなかった。
 引き留められもしなかった。それが母の、最初で最後の譲歩だということを、娘は理解して、振り返らずに歩いた。

 艇が格納庫を出ると、世界に星が戻った。
 後方で、母の艦の扉が閉じる。その向こうから、骸の列を曳いた四十三の声が、一斉に針路を変えるのが聴こえた。深部へ。約束された国のほうへ。後衛の四隻が面を畳み、艦隊の殿に戻っていく。
 そして前方——人間の艦のいる方角の、さらに向こうで、空間が立て続けに開いた。
 縫航の閃きが、一つ、二つ、五つ、八つ。
 聴いたことのない艦たちの、新しい声が雨のように降ってきた。人間の艦隊。連合の増援が、予定より早く、来てしまった。
 小さな艇は、家へ向かって加速した。