第153話 帰る場所
艇が第三格納庫に収まり、与圧の戻る音が止んだとき、格納庫にいたのはハル一人だった。
ナナオは医務室で待つと言い、ヴェインは操舵席を離れず、ツクモは艦のどこにでもいた。一人で迎えると決めたのは、ハルだった。叱る役は分けられない。
待つあいだに、叱る言葉は百ほど作ってあった。
危険の計算をしたのか、から始まる言葉。艦全体が負う危険の話。対外秘の存在が敵の艦に乗ることの意味。保護者の署名のない子供が、と続く言葉。百の言葉はどれも正しく、どれも、艇のハッチが開く音と同時に、嘘になった。正しさで叱るのは、叱る側が楽になるための様式だ。それくらいは、七年も自分を裁いてきた人間には分かった。
艇のハッチが開き、ヨルが降りてきた。与圧服の面体を外した顔は蒼く、足は確かだった。彼女はハルの前まで歩いてきて、立ち止まり、まっすぐに見上げた。叱られる側の立ち方を、自分で選んでしていた。
「二度とやるな」
百の言葉は、結局それだけになった。ハルは、それだけ言った。
声は低く、短く、それきりだった。殴らなかった。抱きしめもしなかった。代わりに彼は、格納庫の床に腰を下ろした。艇の整備台の脇の、冷たい鉄の床だった。ヨルは少し迷ってから、隣に座った。二人分の呼吸が、広い格納庫の中で小さかった。
長いこと、どちらも喋らなかった。
機械の音だけがした。艇の機関が冷えていく、ちち、という音。換気の低い唸り。この艦の、いつもの夜の音だった。
「……おこって、いいよ」と、やがてヨルが言った。
「怒ってる」とハルは言った。「これが、そうだ」
「……しずかだね」
「俺の怒り方は昔からこうだ。うるさい怒り方は、軍で置いてきた」
ヨルは膝を抱え、抱えた膝に顔を半分埋めた。怒られている時間の置き場所を、確かめるような座り方だった。換気の唸りが一巡りして、二巡りした。
「……おかえり」
「ただいま」
それだけの言葉に、四百日かかった。ヨルは顔を半分埋めたまま、それから小さく付け足した。
「ただいまって、いうばしょ、まちがえなかった」
ハルは何も答えなかった。答える代わりに、立ち上がって手を貸した。熱はまだ出ていなかった。出るのはたぶん、今夜からだった。医務室では毛布が温められ、白湯が二度沸かし直されて、ちょうどいい温度に冷めて、待っていた。
報告は、医務室で行われた。寝台に入れられたヨルが話し、全員が聞いた。
「こえのかず、よんじゅうさん」と彼女は言った。「《晦》いれて、よんじゅうさん。はこんでる、ほねは、ろくじゅうななはいぶん。それと、きかいの、ちゅうすうくかくが、たくさん。むかってるのは、ふかいほう。あつまるばしょの、ほうがく、おぼえてきた」
ツクモが方位と推定距離を図に起こした。外縁回廊深部、既知の航路図の外。集結宙域の正確な座標までは出ないが、捜索円は劇的に縮んだ。観測任務の成果として、正規艦隊が一個月かけても届かない数字だった。連絡艇一隻と、十一歳の形をした耳が、一晩で持ち帰った。
「それと——」ヨルはそこで、一度言葉を切った。「おかあさんの、こえ。ずれてる。ツクモと、おなじかたち。ほんにんに、きいた。みとめた。『のこされたじかんは、むげんではありません』って。……くにを、いそぐりゆうの、ひとつ、って」
医務室が静かになった。
ナナオの顔から、飄々の膜が一枚、剥がれた。老医は何も言わずに、紙のカルテの新しい頁に、患者名のない欄をもう一つ作った。ハルは姉妹の病の意味をまだ知らない。知らないまま、敵の旗艦の余命という戦術情報を帳簿の側に書き、それ以上は踏み込まなかった。
「ツクモ。所見は」
「保存します」と声は言った。「……所見は、ありません。姉の時間が有限であるという情報に、つけるべき所見の分類を、私は持っていません」
〇・五秒の沈黙が、その答えの前にあった。計時器を出すまでもなく、ナナオには分かった。ヨルの帳面にも、あとで丸印が一つ増えるはずだった。
警報が鳴ったのは、その三時間後だった。
「縫航反応群の正体、確定しました。連合第七方面の増援戦隊。巡洋艦一、駆逐艦六、徴用補給船二。指揮官より入電——全艦に告ぐ、これより敵性無人艦隊を追撃、捕捉撃滅する」
「馬鹿な」ハルは通信席に飛びついた。「こちら《送り火》。艦隊の撤収路に敷設行動を観測している。観測記録を送る。追撃は推奨しない。繰り返す、推奨しない」
観測記録は、四十時間の触接の全てだった。死者の艦隊の後衛から分離した敷設個体が、撤収路の要所に機雷を置いていく様子を、感知網は淡々と記録していた。罠ですらない。撤収の教範どおりの、後始末だった。
返答は、九分後に来た。
「貴官の任務は観測である。本職の任務は撃滅である。嘱託の助言は記録した。以上」
回線が切れた。
増援戦隊は単縦陣で増速し、骸の列の航跡へ、頭から入っていった。功名の形をした隊形だった。死者の艦隊は会戦以来、人間の艦隊に一隻の損害も与えていない。最初に追いついた艦隊が、最初の戦果を独占する——そういう計算の速度だった。
「触雷まで、推定十一分」とツクモが言った。「本艦からは、間に合いません。何も、間に合いません」
十一分は、正確だった。
戦術図の上で、単縦陣の二番艦の輝点が、音もなく膨らんで消えた。三番艦が回避運動に入り、回避した先で消えた。機雷原は教範どおりに、回避先を読んで敷いてあった。旗艦の巡洋艦が面舵いっぱいで陣を割り、割った横腹へ、伏撃線の光条が三条届いた。轟沈ではなかった。中破して、推進を半分失って、それでも浮いていた。浮いていることが、これからの十四時間、船団全体の足枷になる重さだった。
救難信号が、雨のように降り始めた。
脱出艇。漂流する与圧服。応答しない区画番号を繰り返す通信士の声。十一時間遅れではない、いま、現在の悲鳴だった。
「死者の艦隊、後衛十二隻、反転。追撃針路」とツクモが言った。「動きに乱れがありません。これは応戦ではなく、計算です。回収部隊の撤収の安全のため、追える牙を全て折っておく——ミソカの損益分岐は、そういう形をしています。艦長。本艦の選択肢を列挙します。第一に——」
「救助だ」
ハルは、列挙を最後まで聞かなかった。見捨てる、という選択肢が読み上げられる前に、議題ごと捨てた。
「《迎え火》《燈籠》へ。送り火隊は救難に入る。脱出艇の回収、生存者の収容、中破艦の曳航支度。コルベル、収容の手順はあんたの艦が一番速い。ガロ、雑音で救難信号の位置を隠せ。拾い終わるまで、敵の耳に数を読ませるな」
「……了解。言われると思っていました」とコルベルが言った。
「了解」とガロが言った。「耳を潰す仕事なら、俺の艦の本業だ」
救助は四時間かかった。
《迎え火》が脱出艇を順に拾い、《燈籠》が偽の救難信号を百ほど宙域に撒いて、本物の位置を雑音の砂に埋めた。《送り火》は中破巡洋艦に横付けし、曳航索を渡した。渡しながら、ハルは収容者の名簿を作った。番号ではなく、名前で。所属と、階級と、負傷の別。書きながら、コルベルの艦から同じ書式の名簿が送られてきた。ログ回収の手順と一緒に、いつか彼女が自分から覚えた、あの古い書式だった。
徴用補給船の船長が、回線越しに何度も同じことを訊いた。うちは民間なんだ、民間も守ってもらえるのか、と。守る、とハルは答えた。軍属も民間も訊かない船団にする、それだけが答えだった。船長は礼を言い、礼の途中で声が崩れた。崩れた分は、回線の雑音として処理された。
轟沈した駆逐艦二隻、乗員三百四十名のうち、拾えたのは百七十三名だった。百六十七名は、拾う前に冷たくなったか、見つからなかった。中破した旗艦には生存者が二百九十名残り、自力では巡航の二割しか出せなかった。功を焦った司令は旗艦の医務区画で意識がなく、彼の決断の値札は、彼以外の全員が分割で払っていた。
ハルは数字を帳簿に書きながら、兵站計算を回した。中破艦を曳き、救助艇を抱え、徴用補給船の民間人乗組員を連れて、最寄りの縫航ゲートまで——船団の最大加速は、巡航の四割。
計算の答えが、戦術図の隅に表示された。
ゲートまで、十四時間。
追撃の十二隻が食いつくまで、七時間。
差し引きの七時間を埋める手段の欄は、空白のままだった。