第158話 受取人
テネブラエ港に戻ったのは、ゲートを四つくぐった第五四一日の朝だった。
第七桟橋は六十日の係留で見慣れた場所のはずで、艦を着けてみると、知らない場所のようだった。桟橋の景色は変わっていない。変わったのは、入港の操舵をツクモの自動系がやり、復唱の声が一つ足りなかったことだけだった。
ギルドの窓口で、ミミナは書類を見る前に、ハルの顔を見た。
顔を見て、それから窓口の奥の保管棚を見た。三週間預かった手紙の持ち主が、もうこの世にいないことを、彼女は書類より先に、顔の側から読み取った。何も言わなかった。受付というのは、言わないことの専門職でもあった。
「保険の件で来た」とハルは言った。「受け取りの、拒否はできるか」
「できない。規約上、受取人の指定は本人の遺志として扱われるの。拒否すると、共済の基金に戻って、彼の払った掛金ごと消える」ミミナは端末を引き寄せた。「——でも、受け取ってから全額をどこかへ送ることは、できる。手数料は、こっちで消せる。窓口の裁量って書式があるのよ。使ったの、三年ぶりだけど」
「同盟遺族基金、というのがあると聞いた」
「あるわ。敗戦側の戦争遺族の互助基金。連合の公的補助は同盟遺族には出ないから、あそこが最後の網。……慢性的に、枯れてる。送金先としては、回廊でいちばん金の足りない口座よ」
「全額、そこへ」
ミミナは端末を操作し、送金の書式を呼び出し、金額の欄に一二、〇〇〇、〇〇〇と打った。打ってから、一度だけ手を止めた。
「受取の記録だけ、見る? 受取人の変更がいつだったか」
ハルは少し迷い、頷いた。
変更の受理印は、一年近く前の日付だった。骨市の戦いが終わって、最初にこの港へ入った週。ガズ・ヒバスが収監され、《グロム》の生き残り九人が散っていった、あの後の週だった。家族のない男が、書類の空欄を一つ埋めた。理由の欄は、書式に存在しなかった。
「……拾われた借りの、清算のつもりだったのかしらね」
「違うな」とハルは言った。「あいつは借りの帳簿はつけない。……これは、ただの遺言だ。事務書類の形をしてないと、書けない男だっただけだ」
ミミナは判を捺した。送金が走り、一千二百万クレジットは、ハルの帳簿を通過して、回廊でいちばん枯れた口座へ流れていった。残高の表示は一瞬だけ膨らみ、元に戻った。数字は何も埋めなかった。最初から、埋まる種類の穴ではなかった。
受付台帳を閉じる前に、ミミナはペンを取り、備考欄に小さく書いた。
——ヴェイン・コルサク。《送り火》操舵手。最後の艦は《迎え火》。
台帳の備考欄は、本来、未収金の言い訳を書く欄だった。彼女はそこを、ずっと前から別の用途に使っていた。窓口を通った死者の、名簿のない者たちの名簿として。
「それと、これを頼みたい」ハルは封筒を出した。第二星系、造船所気付、《グロム》機関科。「定期便に乗せてくれ。差出人は——」
「書いてあるじゃない」とミミナは言った。封筒の裏の、几帳面な字を見て。「ちゃんと、本人の字で」
帳簿の精算は、その日の午後に済ませた。
「読み上げます」とツクモが言った。「支出。官給中枢杭二本の弁済、五百万。泊地および帰投の補給、反応材と消耗品、百六十二万。収入。連合方面軍経理部より、戦果調整金八百万。摘要には、救難協力および撤退戦の戦果調整、とあります。撃破三十一号の認定は調整金に内包。二十九号、三十号は、戦果認定の対象外です。轟沈原因が砲火ではなく、衝突であるため」
「……宇宙の質量は、軍の書式に載らないか」
「載りません。彼を撃った側の書式にも、彼が沈めた側の書式にも」ツクモは一拍置いた。「差し引き、百三十八万の黒字。残高、九千五百三万。死亡保険金一千二百万は、本日付で入金、即日全額送金。残高への影響、ありません」
「通過しただけだ」
「はい。通過しただけです」
数字はヴェインの不在を、何も埋めなかった。埋まらないことを確認するために数えるのが、この艦の帳簿の仕事だった。中枢杭の在庫、ゼロ。調達の当て、なし。葬送艦は牙のないまま、それでも係留料と保険料を今月も食っていく。
帰り道、戦没者の壁の前を通った。
連合側の死者の名が、石の壁面にびっしりと刻まれている。七年前の戦争の壁だ。同盟側の名は、一つもない。ヴェインの名がここに刻まれる日は来ないし、刻まれたとして、あの男が喜ぶかどうかも分からなかった。
壁の前には、今日も誰かが立っていた。
港には、もう噂が届いていた。ゲートを四つ越える速さで、噂はいつも書類より早い。第七星系で、葬儀屋の艦の操舵手が殿をやった。同盟の男が、連合の船団五百人を逃がして沈んだ。酒場の口々は、それを美談にする者と、戦犯の罪滅ぼしと呼ぶ者に割れ、どちらの口も、男の名前は知らなかった。名前のない噂だけが通貨になって回る。それが悪名の港の、弔いの形だった。
ハルは、立ち止まらなかった。
素通りした。素通りする自分の足音を、一歩ずつ聞きながら歩いた。立ち止まる資格があるのかないのか、その整理が、まだついていなかった。彼の帳簿には四千十二の引かれる側の数字があり、三十一の引いた数字があり、そして今度、引き算のどちら側にも書けない名前が一つ増えた。書けない名前の置き場所が決まるまで、壁の前で立ち止まるのは、嘘になる気がした。
航海再開の準備は、操舵の空白を埋める作業から始まった。
埋める、という言葉を、誰も使わなかった。組む、と言った。
土台は、ヴェインの遺した教練記録だった。六十日の停止期間に、誰も読まないはずの様式で几帳面に積まれた訓練記録。舵の癖、推進系の応答の遅れ、応答遅れ時の手動継承の手順——手順というのは、要らんうちに書くもんだ、と言って書かれた頁が、要る日が来てしまった。
「操舵体制を再構成します」とツクモが言った。「自動操舵は私が執ります。ただし本艦の機動の三割は、計器より先に艦の重さを感じる種類の判断でした。その帯域を、ヨルの管制補助で補います。索敵席の権限を拡張し、操舵入力の二系統目とします」
「わたし、やる」とヨルは言った。「ならった。はらで、きるの」
訓練は、テネブラエ近傍の慣熟航行から始まった。
ツクモが大枠の針路を執り、細かな修正の癖をヨルが入れる。教練記録の再生が艦橋に流れ、記録の中のヴェインの声が、二人に同じことを何度も言った。回すな、傾けろ。早いのは下手の証拠だ。艦の都合を先に聞け。
記録の中には、彼の手癖がそのまま残っていた。
修正を入れる前に、操舵桿を指で一度叩く癖。減速の前に、必ず半呼吸置く癖。教練の声の、語尾の落ち方。ヨルは再生のたびに手を止めた。止めて、聴いて、それから同じ間で舵を入れた。癖ごと継ぐのが正しいのか、彼女なりの舵を作るべきなのか、答えの出る日はまだ遠かった。
「再生を、止めますか」と、三日目にツクモが訊いた。「教練の内容は、全て手順化が済んでいます。音声の再生は、必須ではありません」
「……ひつようじゃ、ない、けど」とヨルは言った。「とめないで。こえが、てじゅんの、いちぶ」
「記録します。声が、手順の一部」
復唱の声は平坦で、平坦なまま、その夜の保存領域の照合は、いつもより一巡り多く回った。艦は少しずつ、二人の手に馴染んでいった。馴染むことと忘れることの区別を、艦橋の誰もつけられないままだった。
四日目の訓練航行でのことだった。
「ツクモ。第三泊地の管制圏、進入手順の照会を」
ハルが言った。
応答が、なかった。
〇・八秒。
艦橋の時計が、それだけ進んでから、いつもの声が言った。
「——進入手順、照会します。少々お待ちください」
声は平坦で、手順は正確で、何の問題もなかった。何の問題もない顔をした〇・八秒の沈黙の中で、索敵席のヨルと、艦橋の隅で計器を眺めていたナナオが、同時に顔を上げた。二人の目が、一瞬だけ合った。
ハルは、進入手順の表示を見ていて、気づかなかった。
まだ、気づかなかった。