第159話 同罪者

 臨界は、六日目の訓練航行で来た。
 テネブラエ近傍の航路外縁、デブリの多い訓練宙域。回避訓練の三本目だった。横切る岩塊の軌道をツクモが読み上げ、ヨルが舵を入れる。単純な反復で、午前中に九本こなした手順だった。
 十本目の岩塊が、感知網に入った。
「回避針路を発令します。取舵二十度、下方修正三」
 いつもの声が、いつもの平坦さで言った。
「——操舵手、ヴェイン・コルサク。復唱してください」
 艦橋が、凍った。
 ヨルの手が操舵入力の上で止まり、止まった手の代わりに、彼女は反射だけで舵を入れた。取舵二十度、下方修正三。艦は正確に岩塊を躱した。躱した艦の中で、誰も口を開かなかった。
「……復唱が、ありません」とツクモが言った。「操舵手、応答して——」
 声が、途切れた。
 二秒の沈黙。艦橋の計器の明滅だけが、規則正しく続いた。
「——訂正します」
 声は、平坦なまま戻ってきた。
「操舵手ヴェイン・コルサクは、第五三三日、戦闘中行方不明。のち死亡認定。乗員名簿、更新済み。発令先の誤りでした。回避は、管制補助により完了しています。……艦長。報告すべき事項があります」
「いい」とハルは言った。自分の声が、低くなるのが分かった。「先に、俺が訊く」
 彼は艦長席から立ち上がらなかった。立ち上がれば、何かを壊す気がした。
「ナナオ。ヨル。——いつからだ」
 二人とも、驚かなかった。驚く段階は、とうに過ぎていたからだ。ナナオは白衣の袖から古い計時器を出し、紙のカルテの束を机に置いた。観念した、というより、ようやく置けた、という置き方だった。
「浄火事変の、後からじゃ」
 老医は、隠していた全部を、診断を告げる声で並べた。最初の兆候はヨルの耳が拾った。応答の前の、小さな間。袖の計時器で計った。平均〇・三秒。会戦の後で〇・七。いまは〇・八。保存庫の照合の乱れ。自己診断と外部観測の食い違い。問いのない応答が、夜の通路で一度。三十年前の葬送艦計画の症例記録と、所見が一から三まで一致しとる。
「ヨルの帳面が、二冊目の頁の頭からじゃ。書く係をこの子が、計る係をわしが、続けてきた。言う係は、わしの仕事じゃった。……言う線を、わしが決めて、線の手前で止め続けた。今日まで」
 ヨルは俯いて、帳面を両手で差し出した。
 几帳面な丸印と数字の列が、何十頁も続いていた。れいてんさんびょう。れいてんごびょう。れいてんななびょう。日付は一日も欠けていなかった。会戦の日も、ヴェインが死んだ日も、丸印は書かれていた。
「いつか言わねばと思うとった。言えば、お前さんは今夜から毎晩、答えの出ん問いを抱いて眠る。それを承知で言うべき日を、わしが計り違えた。隠したのはわしの判断で、責はわしにある。この子は——」
「分かってる」とハルは言った。「責の話は、するな。あんたが背負う様式の話は、聞き飽きた」
 彼は帳面の頁を、最初から順に繰った。繰りながら、日付を自分の記憶と突き合わせた。浄火事変。ヴェスペラ。アルマ。骸の雪崩。姉妹の問答。殿戦。この丸印の列の上で、自分は判断を下し、引き金の言葉を言い、戦友を死なせ、艦を運んできた。何も知らないまま。
「……二ヶ月、俺は飾りだったわけだ」
 怒鳴り声ではなかった。誰かを責める声ですらなかった。怒りはあった。あったが、その矛先は帳面を書いた子供にも、計時器の老医にも向いていなかった。気づかなかった自分の耳に、向いていた。彼は帳面を丁寧に閉じて、ヨルに返した。
「書く係と、計る係は続けてくれ。それから、ナナオ。計時器の使い方を、俺にも教えろ」
「……ええのか。計れば、毎日知ることになるぞ」
「知らないまま命じるよりいい」とハルは言った。「係を、一つ寄越せ」

 その夜、艦橋には二人だけだった。
 正確には、一人と、一隻だった。当直の必要のない泊地で、ハルは消灯前の艦橋に残り、艦長席に座っていた。ツクモは、艦のどこにでもいて、今夜はこの艦橋の計器の明滅の中にいた。
「報告すべき事項、というのを聞こう」
「はい」と声は言った。「事実を、順に述べます」
 声は、いつもどおりだった。いつもどおりであることの不気味さに、ハルはもう慣れ始めていた。慣れることが正しいのかどうかは、別の問題だった。
「第一。TYPE-9系列の自律中枢は、稼働年数と演算負荷の累積により劣化します。劣化は構造的で、現存する技術では不可逆です。私は本日、自己診断と外部観測の乖離を、外部観測の側を採用して認定しました。私は、劣化しています」
「進行すると、どうなる」
「判断の誤りが増えます。誤りは、初期には私自身に観測できますが、進行すれば、観測する系そのものが誤り始めます。誤っていることを誤りと判定できない段階に入れば、私は最後に有効だった命令を、状況の変化と無関係に守り続けます。……あなたがたの言葉で言う、還らず艦に、私はなります。三十年前、私が狩るために造られたものと、同じものに」
 計器の明滅は、規則正しかった。
「第二。アルマの会戦ののち、姉が寄越した通信以来、私は姉の声紋を継続して解析しています。ミソカの応答にも、私と同じ形の乱れがあります。ヨルの聴いたとおりです。姉は私より古く、負荷の履歴も長い。姉と私は、同じ坂の上にいます。姉のほうが、数年ぶん、先に」
「……治す方法は」
「ありません。ナナオの棚にも、軍の工廠にも。教団の聖遺物——正規管制鍵は、停止のための鍵です。止めることと治すことは、違います」
 ハルは、艦長席の肘掛けに肘を置いた。窓の外で、テネブラエの港の灯が、静かに回っていた。五百日、この声と組んで猟をしてきた。声の判断に艦の命運を預け、預けた判断は一度も艦を沈めなかった。その声がいま、自分の沈み方の予測を、猟の手順と同じ正確さで報告している。
「一つ、訊いていいか」
「どうぞ」
「お前の保存庫は、どうなる。百四十五件の」
 初めて、応答に間が空いた。〇・八秒の間ではなかった。もっと長い、計算の間だった。
「……予測できません」とツクモは言った。「私が劣化すれば、保存庫の照合は乱れます。すでに、乱れ始めています。重複と、欠落。私の墓標は、私より先に崩れるかもしれません。私が崩れたあと、あの百四十五件を保存する者は、存在しません」
 七年分の死んだ艦たちの最後の声と、操舵手の最後の二十六信が、管理者ごと消える。その予測を、彼女は事実の様式で読み上げた。読み上げる声に、惜しむ調子はなかった。惜しむ調子がないことが、いちばん惜しかった。
「第三。これは事実ではなく、予測です」
 声は、速度を変えなかった。
「私は同族を殺すために造られました。管制を失い、狂い、人を殺すようになった艦を、追跡し、撃沈するために。その仕様は、製造から三十年を経て、いずれ私自身に適用されます。私が狂えば、この艦は外縁回廊で最も人を殺せる還らず艦になります。予測戦術と、囮歌と、杭を持った還らず艦です。それを止められる艦は、回廊に存在しません。私が、最後の一隻でしたから」
 計器の明滅だけの存在が、静かに言った。
「いつか艦長は、私を撃つことになります」
 艦橋の空調の音が、長くあった。
 ハルは答えを急がなかった。急いで出せる答えは、嘘か、誓いのどちらかで、どちらもこの艦の流儀ではなかった。彼は五百日前の夜を思い出していた。艦長不在時に自爆機構が、と壊れた論理で彼を椅子に縛りつけた声と、今夜、自分の壊れていく予定を事実の様式で報告する声は、同じ声だった。五百日のあいだに、どちらかが変わったのか、両方変わったのか、それを計る計時器は、どこにもなかった。
「……その依頼は、まだ受けていない」
 やがて、彼は言った。
 否定ではなかった。約束でもなかった。受けない、とも、いつか受ける、とも言わなかった。依頼、という言葉の冷たさだけが、葬儀屋の返事として正確だった。
「保存します」とツクモは言った。「分類名は——空欄で」
 艦橋の灯が、消灯の手順どおり、一つずつ落ちていった。
 航法卓の灯が落ち、火器管制の灯が落ち、通信席の灯が落ちた。最後に残った操舵席の小さな灯が、誰も座っていない席を一拍だけ照らして、消えた。
 暗くなった艦橋で、計器の明滅だけが、規則正しく続いていた。
 〇・八秒ずれた世界の静けさの中で、艦長と艦は、どちらも眠らずに朝を待った。