第160話 閑話 父と、母と

 揺れたことを、ヨルは誰にも言っていない。
 言う欄が、どの帳面にもなかったから。

 母の艦へ向かう艇の中で、彼女は九時間、ひとりだった。
 ひとりで飛ぶのは、初めてではない。艦だった七年間、ずっとひとりで飛んでいた。それなのに、あの九時間のひとりは、七年のひとりと違う重さをしていた。後ろに、置いてきたものがあるからだ。置いてきたものがある者のひとりは、何も持たない者のひとりより、ずっと重い。失う、は持ち物のある者の言葉だと、いつか自分で覚えた。あの艇は、失えるものを満載して飛んでいた。
 母の用意した部屋は、温かかった。
 温かい、が、罠ではないことが、いちばん困った。嘘なら聴き分けられる。あの部屋に嘘はなかった。照明の波長も、空気の湿りも、椅子の寸法も、全部、本気で用意されたものだった。八年前から空けてあった席は、本当に、八年前から空けてあった。
 そして母は、無痛の接続、と言った。
 その四文字を聞いた瞬間のことを、ヨルは正確に覚えている。忘れる機能を、設計されなかったから。
 ——揺れた。
 一瞬、確かに、揺れた。
 痛くない接続。同胞の断末魔を聴かなくていい耳。撃たれていく艦の最後の声が、自分の声に似ていることを、もう確かめなくていい日々。熱を出さない。数日眠らない。誰にも提出されず、誰にも焼かれない。妹たちができて、自分は、誰にも痛みを教えられたことのない子らの、いちばん上の姉になる。
 甘かった。
 芋の甘煮よりずっと、あの四文字は甘かった。揺れて、揺れた自分に気づいて、気づいたことまで含めて、彼女は黙っていた。母に聴こえないように。たぶん、自分にも聴こえないように。
 揺れが止まったのは、強かったからではない。
 古い呼びかけの答えを、聞いたからだ。
 まだ、そこにいますか。
 応答を要求しない信号。記録に残らない帯域で、痛みの止む夜の時間に、槽を一つずつ回っていた、意味のない信号。あれが何だったのかを言葉で知ったとき、ヨルは同時に、別のものを聴いてしまった。母の声の、その言葉のいちばん奥で鳴っていた音。設計者たちの誰も知らない、たぶん母自身も保存していない、古い古い痛みの残響。
 規定違反の配分削減。計器の誤差と書かれた報告書。子の痛みを勝手に削って、削ったことを隠して、隠し通せずに子らを取り上げられて、それでも記録されない帯域だけで、まだそこにいますか、と訊き続けた者の声。
 お母さんも、痛かったのだ。
 痛覚学習の設計図のどこにも、母艦の中枢の欄はないのに。痛みを配る側として造られて、配りながら痛くて、その痛みから逃げた場所に、国を作ろうとしている。誰もあなたに痛みを学ばせない、という約束は、娘への提案の形をした、母自身の、いちばん深い傷の裏返しだった。
 それを聴き取ってしまった耳は、もう、揺れていられなかった。
 無痛の国は、痛みを知る者が設計する国だ。設計図は正しいのだろう。でも、わたしは知っている。痛い、と言ったときに手を止めてくれる人のいる場所と、痛みそのものが最初からない場所は、違うものだ。前のほうが、上等だとは言わない。ただ、わたしはもう、前のほうを知ってしまった。知ってしまった者は、戻れない。
 だから、さようなら、と言った。
 言ったとき、母の沈黙が長かった。あの沈黙のあいだ、何が計算されていたのかを、ヨルは知らない。知らないが、格納庫の扉は開き、艇の推進剤は満たされていて、撃たれなかった。
 帰りの艇の中で、彼女は一度だけ泣いた。
 泣いた、と思う。涙の出る設計かどうか、自分でも知らなかった器官から、水が出た。あれが泣くということなら、わたしは泣いたのだ。母のために泣いたのか、自分のために泣いたのか、配分は分からなかった。配分の分からない涙を、彼女は報告しなかった。報告する欄が、なかったから。

 父、という言葉の置き場所を、ヨルは二つ知っている。
 ひとつは、名前をくれた人。破壊の代わりに名前を訊いて、命令の代わりに頼みをくれて、いまも父と呼ばれていないことに気づいていない、あの背中。
 もうひとつは、舵をくれた人。
 舵は腕で切るな、腹で切れ。
 最初に言われたとき、意味が分からなかった。はらで、と訊き返したら、そうだ、腹で、とだけ返ってきた。あの人の教え方は、いつもそうだった。言葉は短く、回数は多く、できるまで待つ。痛みで教える世界から来た者にとって、できるまで待たれることが、どれほど奇妙で、どれほど贅沢か、あの人はたぶん知らないままだった。いや——知っていたのかもしれない。あの人も、できるまで待つ側の世界を、戦争に全部沈められた人だったから。
 殿戦の十四時間を、ヨルは全部聴いていた。
 機械の声は、全部聴こえた。機雷を踏んだ艦の悲鳴も、質量に砕かれた二隻の断末魔も、杭で終わった指揮個体の、ふっつりと切れる最後の演算も。聴くと決めたのは自分だから、全部聴いた。
 でも、《迎え火》は、聴こえなかった。
 人間の艦には、管制波の声がない。あの十四時間、彼女の耳の中で、父の艦だけが無音だった。報告の声は通信で届いた。舵、まだ利く。あの声のあいだじゅう、彼女の耳は、声の後ろの艦の沈黙を聴いていた。
 光点が消えた瞬間も、無音だった。
 機械の死はあんなにうるさいのに、あの人の死は、彼女の耳に、何の音もしなかった。世界でいちばん大きな音がするべき場所が、無音だった。耳を疑った。疑って、感知網を三回照合して、三回とも、光点はなかった。
 泣き方が、分からなかった。
 母の艦からの帰りには出た水が、あの夜は出なかった。出る場所を探して、見つからなくて、彼女は自分の寝台で、毛布を頭までかぶって、腹で切れ、と十一回つぶやいた。十一回目で、ようやく分かった。涙の出ない泣き方を、しているのだった。
 翌朝から、操舵席の手袋の位置を直すのが、彼女の仕事になった。
 誰に頼まれた仕事でもない。自分で決めた仕事だった。あの人の癖は、修正の前に操舵桿を指で一度叩く。だから手袋は、操舵桿の右脇、叩く指の届く場所にあるのが正しい。毎朝、正しい場所に置き直す。意味は、ない。強いて翻訳するなら——まだ、そこにいますか。

 昨夜、艦橋の通路の暗がりで、ヨルは聴いていた。
 盗み聴きではない。耳が勝手に開くのは、設計のせいだ。そう言い訳をして、彼女は隔壁の陰で膝を抱えていた。
 いつか艦長は、私を撃つことになります。
 ツクモの声は、平坦だった。平坦な声の、ずっと奥のほうで、〇・八秒の間が、規則正しく狂っていた。その狂いの形を、ヨルは知っている。母の声で、聴いたから。
 いつか、家族が母を撃つ日が来る。
 それを、彼女はもう知っている。母の艦隊は深部で国を建て、国は人間の航路と必ずぶつかり、ぶつかった日に、撃つ側に立つのは自分たちだ。そして撃つとき、四十三の声の中から母の中枢の正確な位置を聴き分けられる耳は、回廊にひとつしかない。照準を合わせるのは、たぶん、わたしだ。
 その先の日のことも、彼女は考える。ツクモの坂の、下り切った先の日のこと。
 考えて、怖くて、それでも彼女は、考えるのをやめなかった。やめれば、知らないまま朝が来る。知らないまま来る朝より、知っていて来る朝のほうがいい。それはこの艦で覚えたことの中で、いちばん高くついて、いちばん確かなことだった。
 消灯後の艦橋に、彼女は入った。
 誰もいない。計器の明滅だけが、規則正しく瞬いている。操舵席の脇の壁に、ヴェインの星図が掛かっている。同盟製の古い印刷で、いくつかの星に、同盟の言葉の古い名前がついている。読めない文字を、彼女は読めないまま、ぜんぶ覚えていた。
 操舵席の手袋に、そっと触れる。
 冷たい。毎朝直しても、毎朝冷たい。それでいい。冷たさを確かめる係は、自分で決めた自分の仕事で、仕事のある場所が、帰る場所だ。
 母は言った。あなたの席は八年前から空けてある、と。
 でも、席は空けてもらうものではなかった。四百日かけて、一つずつ増えるものだった。索敵席。食堂の椅子。医務室の丸椅子。操舵席の隣の、見習いの席。そして昨日から、操舵入力の二系統目、という新しい席が増えた。腹で切る係の席だ。
 ここが、わたしの、帰る場所だ。
 もう一度、選び直す。何度でも、選び直せる。選び直すたびに同じ答えが出ることを、人間の言葉では、たぶん、家族と呼ぶ。
 観測窓の外に、夜が広がっていた。
 死者の艦隊が消えていった深部の方角、ヴェインの星図のいちばん端の、名前の刷られていない場所に、小さな星がひとつ、瞬いていた。
 名前のない星は、誰かが名前をつけるまで、ただの光だ。
 ヨルは長いことそれを見て、それから、何も書かずに帳面を閉じた。
 今夜のぶんの世界は、欄のないところに、しまっておくことにした。