第171話 商会の天秤
原稿は書き上がり、裏取りは終わり、あとは運ぶだけ——その「だけ」が、いちばん重かった。
ゲート経由の通信は、全系統が特務局の検閲網の中にある。原稿を電波に乗せた瞬間、記事は発表前に死ぬ。物で運ぶしかない。第三星系から中央まで、縫航ゲートを五つ。検問と税関を抜けて、数日の航海を、確実に。
「整理するわよ」と、出発前のソフィは指を折った。「条件は三つ。検閲網に触れないこと。検問で開けられないこと。開けられても、全部は死なないこと。——三つ目が分かる? 一隻に積んだら、一回の検査で七年が終わるの」
「分散して積む。複数の船に」
「そう。で、複数の船を、検問に顔の利く船団で持ってる相手が、この回廊に一つだけある」
心当たりは、最初から一致していた。
第五七一日、ハルは商会の中継便に符牒を一本載せた。月極護衛契約の時代に決めた、貨物番号の体裁をした古い符牒だ。宛先はロー商会、本船団。文面は荷札三語ぶんの長さしかなかった。
返事は四十時間で来た。荷札の書式で、こうあった。——納品に伺う。葬具一式。
第五七三日、商会の定期船団から連絡船が一隻離れて、巡回泊地の桟橋に着けた。教団の宗務が管理する泊地に、葬儀用品を納める商会の船。税関の台帳の上で、これほど自然な取引もなかった。
ウェンディゴ・ローは、連絡船の会計室で待っていた。
卓の上に、古い天秤が一つ置いてあった。鉱石の検量に使う、商人の道具だ。電子計量が当たり前になって三十年、彼女がそれを現役で使っているという話は、護衛契約の頃に聞いていた。狂わないからではない。狂ったときに、狂ったと目で分かるからだという。
「久しぶりね、葬儀屋。手配書の写真より、人相が悪くなった」
「逃げる商売は、人相に出る」
「出るわよ。帳簿にもね」と彼女は言って、椅子を示した。「用件は符牒で察しがついてる。先に、こちらの計算を聞きなさい」
彼女は前置きをしなかった。
「あんたがうちの船団に積めと言っているのは、火薬よ。爆ぜれば、商会ごと飛ぶ」
卓の上で、彼女は数字を並べていった。感傷の一切混じらない、検量の手つきだった。ロー商会の航路権のうち、連合の認可に依る部分が六割。軍納入が年商の二割二分。手配対象の隠匿と禁制文書の運搬が露見した場合、認可は全て停止、罰金は係争次第、信用の損害は計算不能。天秤の片方の皿に、分銅を一つずつ載せていくように、彼女は喋った。
「で、反対の皿に何が載るの。あんたの口座は凍結中。護衛契約も停止中。積めるものがあるなら、出してみなさい」
「金目のものはない」とハルは言った。「載るのは、記事の中身だけだ」
彼は封のままの写しを卓に置いた。彼女は封を切らなかった。切らないまま、長いこと、封筒の厚みを見ていた。
「中身の見当は言える」と彼女は言った。「七年前の停波と、誰かの署名。それから、還らず艦の中枢を集めてる連中の話。——そうでしょう。骨市の頃から、流れの読める話だった」
「概ね、その通りだ」
「なら、こちらの皿に載るものも、自分で言えるわ」
ウェンディゴは天秤の空の皿に、指を一本置いた。
「還らず艦の被害で、航路保険の料率は七年で四割上がった。死者の艦隊が肥えれば、外縁の航路は順に死ぬ。航路が死ねば、うちも死ぬ。それを軍が『資産』として回収して、次の戦争の弾にするなら——次の戦争で死ぬのは、まず商船よ。前の戦争でも、そうだった。うちの船団は開戦の年に十一隻徴用されて、戻ったのは三隻。徴用解除の通知は、沈んだ八隻の分まで律儀に届いたわ。書類だけはね」
彼女はそこで言葉を切り、皿から指を離した。
「と、いうのが役員会向けの計算。これだけでも皿はだいぶ釣り合う。釣り合うけど、傾きはしない」
「傾けるものが、あるのか」
「あるのよ。困ったことに」
ウェンディゴ・ローは、それが何かを言わなかった。テッサの封鎖の年、月八百二十万の赤字を先行投資と呼び続けた女が、卓の向こうで決算書を閉じるときの顔をしていた。封鎖下の配給所で台帳をつけていた誰かの字の話を、ハルは噂の形でしか知らない。知らないままにしておくのが、この取引の作法だった。
「積むわ。——貸しにしておく。利子は複利よ、葬儀屋」
「返せる当てを言える立場じゃない」
「当てのない貸しほど、複利が効くの。商人を続けてると、それくらいは覚える」
段取りは、その場で一時間で組まれた。
証拠の複製は三組。原稿、停波指令の復号記録、認証系列の照合表、経費精算の写し——一式を三つに複製し、定期船団の別々の三隻に分散して積む。一隻が検査で開けられても、二隻が抜ける。三隻とも開けられる確率は、ウェンディゴの計算で「無視できる程度には小さく、祈る程度には大きい」。
台帳上の品名は、それぞれこうなった。機械部品。印刷物。葬儀用品。
「嘘は一つも書いてないわ」と彼女は言った。「印刷物は印刷物だし、あれが葬儀用品でないなら、何が葬儀用品なのよ」
一つだけ、卓が止まった箇所があった。積み荷の中身を、三隻の乗組員に知らせるかどうかだ。ウェンディゴは知らせない側に立った。知る者が増えれば漏れる目が増え、検問で顔に出る者も増える。知らないことは、罪の軽さでもある。ハルは知らせる側に立った。危険を運ぶ者が危険を知らないのは、七年前に自分がやられた手口と同じ形をしている。
裁定は、商隊長が下した。船長三名にだけ、品目と危険を全て開示する。受けるかどうかは各自が決める。断った者の船には積まない。——一時間後、三人とも受けた。一人は無言で、一人は運び賃の上乗せを要求して(認められた)、一人は「テッサで配給を受けた側だ」とだけ言ったという。
ソフィ・ラングは二番船に乗った。乗組名簿の上では、商会の検数員だった。舷梯の手前で、彼女は《送り火》の方角を一度だけ振り返り、手を上げる代わりに手帳を一度だけ持ち上げて、船に消えた。運び賃の請求書は、来なかった。代わりに符牒の更新料と便乗手続きの実費として、商会の正規の書式で六万クレジットの請求が来た。取引は帳簿に載せる、貸しは載せない——彼女の天秤の使い方だった。手元の決済票は、六百三十六万になった。
ハルは三隻の船名と船長の名を、自分の帳簿に書き写した。賞金でも経費でもない頁だ。危険の中身を知らされて、それでも受けた三人。記事が無事に着けば、誰にも知られない三人。着かなければ、罪状の並びに載る三人。どちらの未来でも名簿の側に残るように、彼は日付を添えた。
「興味深い配分です」とツクモが言った。「本件の最重量の貨物は、本艦にも、記者にも、もう積まれていません。三隻の商船に積まれています。私たちにできるのは、目を引き付けることだけです」
「囮が本業の艦だ。文句はないだろう」
「ありません。仕様の範囲です」
「一つ訊いていい」と、別れ際にウェンディゴが言った。「記事が出たら、あんたの罪状も全部載るのよね。禁制中枢も、偽装も」
「載る。そういう条件で頼んだ」
「……そう」と彼女は言い、それ以上は何も載せなかった。彼女の天秤は、量り終えた荷を二度は量らない。
第五七四日、船団は中央へ向けてゲートに入り、《送り火》は反対の岸へ向かった。
仕事はまだ一つ残っていた。手配中の艦の航跡は、それ自体が貨物になる。ハルは囮歌を逆向きに使わせた。隠れるのではなく、見つかり方を選ぶ。外縁側の哨戒網に、わざと機関波形の尻尾を二度踏ませ、賞金稼ぎと特務局の目を、真実の積み荷から引き剥がして外へ連れ出す針路だ。
「囮の航跡、敷設完了」とツクモが言った。「本艦は今夜から、三千万クレジットの撒き餌として機能します。撒き餌の経歴としては、過去最高額です」
「高い餌ほど、よく釣れるかの」とナナオが言った。
「釣れます。釣れている間、誰も貨物室の帳簿を読みません」
その夜遅く、ガロからの緊急の短信が、闇の中継局を三つ経由して届いた。
暗号を解くと、文面は二行だった。
——特務局が動いた。矛先は報道ではない。
——艦隊が、深部へ出る。