第180話 閑話 港の灯

 ミミナの朝は、いまでも帳面の繰り越しから始まる。
 戻った者の名を確かめ、戻る予定を三日過ぎた者の名に点を打ち、点が三つ溜まった名に、線を引く。線は朝のうちに引く。夕方に引くと、家まで持って帰ることになるからだ。十一年目の窓口の、変わらない開け方だった。
 そしてミミナの夜は、帳面の繰り越しで終わる。
 明日出る者の名を確かめ、預かったものの目録に判を捺し、灯りを半分落として帰る。
 今夜は、灯りを落とせそうになかった。

 出撃の前夜、傭兵ギルドテネブラエ支部の窓口には、列ができていた。
 精算でも登録でもない。遺書を預けに来る列だ。葬儀屋稼業の古い習慣だった。死亡率が突出した猟に出る者は、出る前夜、ギルドの受付に封書を一通預けていく。宛先のある者は宛先を書き、ない者は受取人の欄に「ギルド受付」と書く。窓口が、回廊でいちばん安い公証人だからではない。窓口が、確実に明日もそこに座っているからだ。
 ミミナは一通ずつ受け取り、目録に控え、判を捺した。何も言わないのが作法だった。励ましは縁起が悪く、忠告は手遅れで、世間話は明日の朝に取っておくものだ。十四隻分の傭兵と、その乗組員たち。預かりは夜半までに四十一通になった。十一年で、一晩の数としては最多だった。
 ふた月前、この窓口は同じ男の手配書を受け付けていた。逮捕協力、三千万。あの朝、照会の列に並んだ顔ぶれの何人かが、今夜は遺書の列に並んでいる。職務欄に「葬送」と書いた船長は、封書を差し出しながら、言い訳のように言った。
「……賞金で追っかけた相手と出るんだ。書き直すことが、いくつかあってよ」
「ええ。お預かりします」
 判を捺す。それだけが、彼女の返事の様式だった。
 列の途中に、見覚えのない若い顔が一つ混ざっていた。登録三月足らずの新入りで、遺書ではなく、参加申請を出しに来たのだった。ミミナは規定集を開き、該当の頁を向けて見せた。本作戦の参加要件、登録六月以上、または艦隊戦の従軍歴。どちらもない者の申請は、受付の権限で返却できる。
「あんたを落とすのは、あたしじゃなくて規定よ」と彼女は言った。「規定に落とされてるうちに、護衛で経験をお積みなさい」
 若いのは何か言いかけて、やめて、帰っていった。聞かないかもしれない。それでも、規定の頁で止められる命は、規定の頁で止める。線を引く側の人間が覚えた、数少ない先回りだった。
 賭けの胴元は、今夜は帳場を開かなかった。閉めた理由を、彼は窓口に来て、聞かれもしないのに喋っていった。死ぬか戻るかのオッズは、相手が海賊や還らず艦一隻なら立つ。百二十隻の死者の艦隊が相手では、数字を出した瞬間に賭けではなく予言になる。予言の胴元は、縁起が悪くて商売にならない——そう言って、男は卓に小銭を置いていった。何の金かと訊くと、献杯の前払いだと言った。誰のための献杯かは、言わなかった。

 あの頃、と彼女はふと思い出す。
 十一年のうちの、ほんの一年半前。葬儀屋はまだ酒場の噂で、彼女はあの男を、夫を殺した戦争の後始末で稼ぐ男と呼ぶべきか、恩人と呼ぶべきか、決めかねていた。台帳の特記事項に通り名を書きかけて、消して、本名を書いた夜があった。あれから台帳は頁を重ね、撃破された艦の識別符号が並び、死んだ傭兵たちの名に線が引かれ、備考欄には、彼女の私的な名簿が増えた。ヴェイン・コルサク。《送り火》操舵手。最後の艦は《迎え火》。
 あの男の返書を投函したのも、この窓口だった。宛先は第二星系の造船所気付。本人の字で書かれた封書が、本人の死んだあとに旅をして、返事はまだ来ない。来たら備考欄に書き足すつもりで、彼女はその行を空けてある。窓口の帳面には、そういう空けてある行が、年々増えていく。
 決めかねていた勘定は、結局、決めないまま終わった。恩人とも仇とも書かない欄の作り方を、彼女はあの男の帳簿の手つきから覚えたのだと思う。書けない勘定は、書けないまま保管する。窓口とは、そういう倉庫だ。

 閉局の間際に、最後の客が来た。
 葬儀屋本人だった。差し出されたのは遺書ではなく、布で包んだ箱が一つと、帳簿の写しが一冊だった。
「預かってほしい。遺書じゃない」と男は言った。「ヴェインの遺品と、俺の帳簿の写しだ。艦に置いていくと、艦ごと沈んだとき、誰も読めなくなる」
 箱と一緒に、封をした指図書が一通あった。宛名は、ギルド受付。艦が還らなかった場合の、保存記録の公開の指図だという。彼女は中を読まずに目録へ控えた。百四十五件、という数字だけ、口頭で聞いた。撃破された艦の最後の記録が百四十四件と、人間の最終通信が一件。あの黒い艦が二年集めてきたものの正体を、彼女は今夜、品名の欄一行ぶんだけ知った。死んだ艦の名簿を抱えて死地へ行く艦の、名簿の控えを預かる窓口。十一年やって、初めての品目だった。
 目録に書く品名を、彼女は一瞬考えた。遺品。帳簿写し。預け主、アマノ・ハル。受取人の欄を訊くと、男は少し黙ってから言った。
「……戻ったら、引き取りに来る」
「ええ。保管料を取るわよ」
「妥当だ」と男は言った。笑わなかったが、笑い方を忘れた顔でもなかった。彼女は判を捺し、四十二番の控えを渡した。男は控えを几帳面に二つ折りにして、出ていった。
 受取人の欄は、空欄のままにした。戻ったら引き取りに来る、は受取人の指定ではない。指定でないものを書き込まないのが、帳面の正しさだ。空欄の正しさを守るために判を捺す夜が、窓口には、たまにある。窓口に、味方の欄はない。預かり物の欄が、あるだけだ。それで足りる夜のために、窓口は十一年、ここにある。

 閉局のあと、彼女は港の通路を歩いて、戦没者の壁の前に立った。
 連合側の死者の名だけが刻まれた、長い壁だ。壁の下にはまだ、先月の紙面の写しが何枚か、風化しかけて残っていた。停波と署名の記事。撃たれた側の名前は壁に刻まれ、撃たせた側の名前は紙に印刷され、紙の方が先に色褪せていく。それでも、置かれたという事実は、置いた者の数だけ残る。
 夫の名は、ここにはない。夫は軍人ではなく、戦争が終わってから戦争に殺された側で、その種類の死者の壁を、誰もまだ作っていない。それでも彼女は十一年、この壁の前で立ち止まる。名前を刻まれた者の隣が、名前を刻まれなかった者の場所だと決めているからだ。
 壁の端に、何も刻まれていない余白がある。
 彼女は夫の名のない壁に触れ、それから、その余白に触れた。明日出る六十余隻の、誰の名もまだ刻まれていない場所。刻まれずに済むことを祈る場所。祈りの作法を、彼女は教団から習わなかった。窓口の作法で代用する。——全員分の受付番号は、控えてある。戻ったら、順に返す。それだけだ。
 帰り道、桟橋の灯が見えた。
 明日出る艦の灯が、軌道までずっと並んでいる。港の灯は、今夜は夜通し点いている。出る者のためではない。出る者は、灯がなくても出ていける。還る者のために点けるのが、灯というものだから。
 家に帰って、彼女は写真の前で上着を脱いだ。
「……明日、葬式が出るのよ」と彼女は報告した。「あんたを殺した戦争の、たぶん、いちばん大きな葬式」
 写真の夫は、舷梯で笑ったままだった。死んだ人間は帳面をつけない。つけるのは、残った側の仕事だ。だから彼女は明日も窓口に座る。預かったものを、返す日のために。

 朝、〇六〇〇。
 最初の艦が、桟橋を離れた。
 ミミナは開局の支度の手を止めず、窓の外で港の灯が一つずつ、朝の色に薄れていくのを見ていた。黒い艦が最後に岸を離れ、六十余の灯がそれに続き、ゲートの方角へ、長い葬列のように連なっていった。
 帳面を開く。今朝は、線を引く名前がなかった。点を打つ名前も、まだない。点が打たれ始めるのは、三日後からだ。それまでの三日間、この帳面は回廊でいちばん静かな帳面でいられる。
 窓口の控えの束は、四十二番まで、引き出しの中で待っている。返す日まで、灯は点けておく。それが窓口の、十一年目の様式だった。