第190話 閑話 葬儀屋の艦隊にいた男
男は、名前を呼ばれたことがない。
傭兵艦《ばら銭》の機関員で、五十二で、元は同盟軍の補給艦の機関科にいた。船長も若いのも、彼を呼ぶときは、おっさん、で済ませる。給料の振込先には名前が要るから、名前はある。名前が要るのは、書類と墓だけだ。墓のほうは、まだ要らない。
同盟が負けた年、男は四十五だった。艦を降りて九年になる今も、機関室より落ち着く場所を知らない。女房は中継港の食堂で働き、娘は来年、整備学校を出る。学費の振込が、男のいまの戦争だった。
艦隊に乗ったのは、金のためだった。
死亡時補償、正規基準。呼集の文面のその一行を、船長が酒場で三度読み上げた。傭兵の四割相場で女房子供を残すのと、正規基準で残すのとでは、死に方の値段が倍以上違う。死ぬ気はないが、機関員は艦の腹の中にいるから、死ぬときは選べない。選べないものの値段が上がったなら、乗る。それだけの話で、大義の欄は空欄だった。
黒い艦のことは、噂しか知らなかった。
葬儀屋。死神の艦。禁制の機械を腹に飼っていて、近づいた艦から沈む。出航前の酒場では、誰かがそんな話をし、誰かが、馬鹿を言え、あの艦は二年で還らず艦を三十一隻沈めたんだ、と返し、どちらも本人を見たことがなかった。男は黙って飲んでいた。同盟の補給艦にいた頃、還らず艦になった僚艦の名を、彼は二つ知っている。あれを沈めて回る稼業が、死神なのか葬儀屋なのかは、沈められた側の名簿に訊かなければ分からない、と思っていた。
実物の葬儀屋は、演説をしない男だった。
訓示は出航前に一度きり。死ぬな、奪うな、名前を記録しろ。あとは講義が二度。敵の数と、台所の話。勝つ話は一度もせず、死なずに削る話だけをした。機関室で回線を聞いていた男は、ああこれは兵站の人間だ、と思った。同盟の艦隊にも、ひとりだけそういう参謀がいた。あの人の作戦のときだけ、機関員の死人が減った。
そして毎朝、〇七〇〇に配信が来た。
前日の戦死者の氏名。遺族への支払いの進捗。それだけの、そっけない文面だった。励ましも、悼みの言葉もない。最初の配信は十一行で、抜け駆けして沈んだ《岬鴉》の連中の名前が並んでいた。叱責はどこにもなかった。名前と、手続きの進捗だけがあった。
タンカーが焼けた夜も、配信は止まらなかった。
十七人。商会の船員で、傭兵ですらない。翌朝の配信には十七の名前と、補償の請求先と、進捗が並び、その次の朝には、支払い完了の行がもう三つあった。男は機関室の油まみれの端末で、毎朝それを読んだ。読みながら、思い出していた。同盟の提督たちは、損耗、という言葉を使った。礁の中の機械の女王は、ヨルの嬢ちゃんだか何だかの話では、捨てた数を数えているだけだという。数で扱うのは、どちらも同じだ。あの黒い艦の男だけが、毎朝、数に名前を戻している。
配信の末尾には、撃破した還らず艦の識別符号も並んだ。
男はそれを、毎朝、癖のように目で浚った。同盟の補給艦にいた頃の僚艦が二隻、還らず艦の名簿のどこかにいる。符号は今でも諳んじている。楔の三日目の朝、配信の符号の列に、見覚えのある並びが一つあった。二隻のうちの、片方だった。男は端末を閉じ、その日の夜勤を若いのと代わってもらい、機関室の隅で、古い機関科の手順書を一冊、最後まで読み直した。何の供養にもならないことは知っていた。知っていたが、機関員の葬式の出し方を、他に知らなかった。
翌々日、ギルドの様式で告知が出た。撃破艦の最終ログは、作戦終了後に全件公開される、と。特命の条項にもとからあった話らしい。男は申請書式の隅に、閲覧希望、と書いて出した。七年ぶりに、書類の名前の欄を丁寧に書いた。
誤射未遂の日のことは、思い出すと今でも腹の底が冷える。
囮歌が乱れて、黒い艦の砲が《ばら銭》を向いた。機関室にいた男は何も見ていないが、充填の帯域が立ち上がるのは計器で分かった。分かって、何もできることがなかった。機関員とはそういうものだ。砲は、半秒で逸れた。あとで聞けば、向こうの艦長が手動で射撃指揮を切ったのだという。機械が乱れ、人間が止めた。教団の騎士の女が回線でそう言い切り、二年見張ってきた、保証する、と続けた。男は油の染みた手袋を外して、しばらく計器を見ていた。保証、という言葉を、教団の人間が機械のために使う日が来るとは、五十四年生きて思っていなかった。戦争は人を変えないが、戦後は人を変える。変わった側に、いつの間にか自分も数えられている。
その日の夜の配信も、いつもどおりに来た。戦死者、十一名。巡視艇の連中だった。誤射未遂の釈明は、一行もなかった。釈明の代わりに、機械の側の不調は都度全艦に報告する、という通達が、機械自身の名義で来た。名義の欄に、ツクモ、とあった。禁制の機械が自分の病状を申告してくる艦隊に、男は乗っていた。
タンカーが二隻焼けてからは、推進剤の配給が渋くなった。
機関員には、配給の渋さがいちばん正直な戦況図だ。残量計の針は日ごとに軽くなり、楔の三日間は、全艦が燃料を噛み締めるように使った。澪の突入の朝は、その逆だった。出し惜しみなしの、全力の百十秒。機関室では計器の悲鳴と艦体の軋みしか分からない。骸の断片が外殻を擦る音を、男は同盟の昔から数えきれないほど聞いてきたが、慣れたことは一度もない。乱戦を抜け、機関が定常に戻った瞬間の静けさだけが、機関員の知っている勝利の形だった。《ばら銭》はあの乱戦で外殻に骸の欠片を二発もらい、男は徹夜で配管を二系統引き直した。死んだ艦の欠片で死にかける。この礁では、それが普通の死に方らしかった。
決戦の前夜、男は柄にもなく、整備を一巡多くやった。
冷却系の増し締め。予備の濾過器の交換。やらなくても明日は動く作業ばかりだった。若い機関員が、おっさん今夜は丁寧だな、と笑った。男は手を止めずに答えた。
「葬儀屋の世話にはならん」
「は?」
「あの男の帳簿をこれ以上重くするな、っちゅう話だ。……分からんなら、いい。手ぇ動かせ」
若いのは笑っていた。笑っていたが、自分の持ち場の点検を、それから一巡多くやっていた。それでいい。配信に名前が載らないことが、あの旗艦への、機関員にできる唯一の返礼だった。
翌朝——〇三〇〇に、黒い艦は単艦で澪を進んでいった。
通信封鎖の中だった。見送りの言葉も、武運を祈る符号も、規定で全部禁じられていた。《ばら銭》の艦橋でも機関室でも、誰も何も言わなかった。ただ、感知網の隅を滑っていく小さな輝点を、当直でもない連中まで起きてきて、黙って見ていた。船長が帽子を取った。若いのが取った。男も、油除けの帽子を取った。艦隊の六十何隻で、たぶん同じことが起きていた。誰も命じていないのに、勝手に、帽子だけが取れた。
帽子を戻してから、若いのが小声で訊いた。
「おっさん。あれ、勝てるのか」
「知らん」と男は言った。「だがな、あの艦は二年、勝ち方じゃなく、死なせ方の少ないほうを選び続けてきた船だ。選び続けた奴の最後の選択なら、機関員は信用していい」
夕刻、礁の奥から戦闘終了の打電が来た。
戦死者、零。それだけの短い電文だった。機関室で男は、献杯の前払いをしてきた港の胴元のことをふと思い出し、結局、水筒の白湯で一人だけの献杯をした。誰のための献杯かは、言わなかった。言わない作法だけは、どこの軍でも同じだった。
その夜の機関室は静かだった。六十隻を割った艦隊の機関が、どれも出力を絞って、礁の奥の気配を聴いているようだった。
翌朝の配信は、二時間遅れて届いた。
戦死者の欄は空で、停止した還らず艦の確認作業の指示が、いつもより素っ気なく並んでいた。配信が遅れた理由を、男は知らない。旗艦の腹の中で、何の数字が数えられていたのかも知らない。知らないまま、男は機関室に降りて、計器を磨いた。
葬儀屋の世話にならないために。あの男の帳簿を、これ以上重くしないために。