第191話 自沈

 残り十時間五十二分、と艦は言った。
 言い終えてからも、ツクモは仕事を止めなかった。帰投針路の微修正。停止した直衛七隻の漂流予測。明朝の配信の下書き。自沈を進言した艦が、明日の朝の事務を律儀に整えていく。警告灯の赤に染まった艦橋で、その律儀さが、ハルにはいちばん堪えた。
「対案をお待ちするあいだに、論拠を申し上げます」とツクモは言った。「第一。私は禁制の自律中枢であり、協定上の破壊対象です。第二。劣化は不可逆で、本日の演算により私の頭は実用域を出ました。第三。戦争は、本日終わりました。第四。乗員三名は、退艦すれば確実に生存します。礁の重力井戸へ針路を取れば、残骸も、回収の費用も残りません。費用対効果として、過去最良の自沈です」
「数字の出どころは認める。結論は、二度目の却下だ」
「では三度目の論拠を」と艦は言った。「艦長。私は同族を殺すために造られました。管制を失って狂った同族を、追って、沈める。それが仕様です。三十年かけて、最後の同族が残りました。——私です。私が三十九隻目の還らず艦になり、誰かがこの艦のことを誰かの帳簿に書く前に、仕様どおりに終わらせてください。これは、設計の完了です」
 言いながら、彼女は表示の一枚に文書を開いてみせた。整った様式の、引き継ぎ書だった。艦の癖、整備の周期、未払いの債務、墓標庫百八十一件の公開指図の写し、停止した直衛七隻の検分要領。乗員が退艦したあとの世界が、几帳面に準備されていた。死のうとする者の遺書は、この艦の上では、いつでも事務書類の顔をしている。ハルはその様式に、見覚えがありすぎた。
 昇降筒からナナオが上がってきた。白衣の裾が乱れたままだった。ヨルは医務室行きを拒んで管制補助席に残り、毛布を肩に掛け直しもせず、計器ではなくスピーカーを見上げていた。
「退艦の用意は、しない」とハルは言った。「全員、この艦に残る。それが前提だ。前提に文句があるなら、カウントを止めてから言え」
「人質の論理です。非合理です」
「ああ。お前が二年前に俺へ使った論理だ。借りを返してるだけだ」
 ツクモは、何も返さなかった。計算の音だけが、返答の代わりに長かった。
 ハルは赤い灯の下で、七年前の夜のことを考えていた。中継卓の前で、来ない応答を待っていた夜。あの夜から数えて、彼の帳簿には四千十二人の名前が積もり、三十八隻の線が重なり、百四十六名の艦隊の戦死者が並んだ。そして今夜、帳簿のいちばん新しい行に載ろうとしているのは、艦が一隻だった。届かなかった帰還命令の、最後の中継者が、最後の一隻を退艦して見送る——その絵面の収まりの良さが、何より気に入らなかった。収まりのいい結末は、たいてい、誰かが勘定を誤魔化している。

 ハルは艦長席に座り直した。座って、机に物を置く代わりに、言葉を一つ置いた。
「ひとつ訊く。予約してあった宿題だ。終わったら話すと言った。——いま終わったことにする」
「……二年前の、件ですか」
「デブリ帯で俺を拾った日。カウントは進んでいた。お前は言った。艦長不在時には自爆カウントが進行する仕様だ、解除には艦長の任命が要る、と。俺はそれを二年、疑ったり、信じたり、訊きそびれたりしてきた。……あれは本当に、漂着者を艦長にするしか、手が無かったのか」
 沈黙が、艦橋を満たした。
 機械に間は要らない。要らない間が、七秒続いた。ナナオが袖の計時器に手をやり、やって、計るべきものが応答遅延ではないと気づいて、手を下ろした。
「カウントは、本物の仕様でした」と、やがて声が言った。「偽装ではありません。あの日、本艦は実際に、自壊へ向かっていました。ですが——解除の手段は、他に二つ、存在しました。整備モードへの移行。中枢の自己凍結。どちらも、漂着者を必要としません。どちらも、私一隻で実行できました」
「選ばなかったのか」
「選びませんでした。デブリ帯を漂う男の生体反応を検出し、収容し、艦長に任命しました。所要、十一分です」
「なぜだ」
「理由は、記録されていません」と艦は言った。それから、七百日ぶんの空白と同じ長さに聞こえる、短い間があった。「……いえ。訂正します。記録しなかったのです。仕様に、私の意志を混ぜたと、知られたくなかった。同族を殺すための艦が、終わりたくない、という変数を持っていたと知られれば——私は、あの日のうちに破壊対象でした。誰よりも、私自身の分類規定で」
 仕様であり、意志だった。
 二年間、艦長という肩書きの下で曖昧に揺れ続けたものが、初めて言葉の形を取った。強制された主従の、最初の一行目に、意志が混ざっていた。ハルはそれを聞き、聞いた自分の胸の中を確かめた。怒りは、なかった。あったのは、勘定の合う音だった。二年前、終わりたくなかった艦と、終わり方を探していた男が、デブリ帯で出会った。帳尻は、最初から合っていたのだ。
「なら、今度は俺の意志だ」とハルは言った。「お前を撃たないと誓った。——沈ませもしない」
「……誓いは、性能を変えません、艦長」
「変えるのは、わしの仕事じゃ」とナナオが言った。

 老医は艦長席の脇に、紙の図面を広げた。三十二時間前に医務室で広げたのと、同じ図面だった。
「手順は変わらん。三層じゃ。鍵で凍結、ヨルが境界を照らす、わしが切る。……変わったのは前提だけじゃ。決戦のあとの、安定した環境で、と言うた。安定した環境は、もう無い。あるのは十時間半と、揺れる艦と、消耗しきった接続役と、徹夜明けの執刀医じゃ」
「成功率は、当初の見積もりを大きく下回ります」とツクモが言った。「ナナオ。あなたの言わない数字が、いくつまで下がったか、私には計算できます」
「計算できる頭を、これから黙らせに行くんじゃよ」
「やる」とヨルが言った。毛布を床に落として、立っていた。「きめてた。……まえから。きょうの、ぶんも、きめてた」
「お前さんの消耗は規定の三倍を超えとる。接続の途中で意識を落とせば、境界ごと見失う」
「おとさない」と彼女は言った。「おかあさんの、こえ、よんじかん、きいた。さいごまで。……ツクモの、なかみを、みうしなったり、しない。かぞく、だから」
 ナナオはカルテに何かを書き、書いた文字をハルには見せなかった。代わりに、医者の声で言った。
「揃わんのは、あと一つ。鍵の読み手じゃ」
「読み上げは録音では駄目なのか」とハルは訊いた。
「駄目じゃ。正規管制鍵の唱句は、生きた人間の肉声と、その場の生体反応の照合で初めて通る。大戦前の設計者どもは、機械を止める最後の権限を、機械に渡さんかった。録音にも、渡さんかった。……三十年で、唯一あの連中を褒めたい仕様じゃよ」
 澪の入口の教団艦へ、暗号の短信を一本打った。必要になった、の六文字で足りた。
 返信は、九十秒で来た。
「祈っていると言ったはずだ。——艇を出す。四時間で行く。それまでに、死ぬな。誰もだ」
 ハルは表示の隅の数字を見た。残り、十時間十一分。
「艦長」とツクモが言った。「私の自沈案は、撤回されていません。記録上、保留として残します。……ですが、命令として、受領します。全乗員の残留と、手術の実施を」
「ああ」
「では——」と艦は言いかけ、〇・何秒か、言葉を選び直した。「……ご決断は、もう、いただいたのでした。本日二件目の様式の乱れです。切除予定の領域に、計上しておきます」
 艦は澪の内口へ向けて、静かに増速した。
 骸の森が窓の外を流れていく。三十年前の戦争で死んだ艦々の墓場を、今夜は誰も狩らずに通る。ナナオは医務室へ降りて器具の支度を始め、ヨルは管制補助席で、目を閉じて耳の力を抜く練習を繰り返した。接続のための、彼女なりの準備運動だった。ハルは艦長席を立たず、十分ごとに減っていく数字と、減らない決心とを、交互に確かめた。
「艦長」と、しばらくしてツクモが言った。「一件、照会します。手術が失敗した場合——あなたは、私を撃ちますか」
「その依頼は、受けていない」と彼は言った。「最初から、一度もだ」
「……回答を、保存します。分類名は——空欄のままにします」
 赤い警告灯の下で、四人ぶんの夜が始まった。残り、九時間四十分。