第194話 同居人

 艦内灯が全て戻っても、声は、すぐには戻らなかった。
 ナナオは抜き取った結晶束を金属の盆に並べ、布を掛けた。摘出物に布を掛ける規定は、機械の手術には存在しない。存在しない規定を、老医は手の癖でやった。セルマは唱句書を閉じ、閉じた書の上に両手を重ねて、目を閉じていた。読み終えた者の姿勢だった。ヨルは接続索を握ったまま、ナナオの膝を借りて意識を手放しており、体温は三十八度六分、脈は速いが整っていた。眠りだ、と老医は診た。気絶ではなく、仕事を終えた者の眠りだと。
 〇四四〇、スピーカーが鳴った。
「……再起動、完了。TYPE-9、九十九号機。呼称、ツクモ。……自己照合に、四秒を要しました。申し訳ありません」
「謝るな」とハルは言った。「遅刻の届けは、受理する」
「では、現状報告です」と声は言った。平坦で、丁寧で、いつもの声だった。「自爆系統——切除により、物理的に消滅。カウントは、数える主体ごと存在しません。劣化領域——切除済み。進行の根は、確認できません。ナナオ。あなたの患者は、坂を下り終えました。以後は、平地です」
「平地の広さを、言うてみい」と老医が言った。医者の声だった。
「狭いです」とツクモは言った。「損失目録を読み上げます。予測戦術ライブラリ、全損。囮歌生成系、全損。多変数同時裁定機構、全損。弾道計算は補助計算機との比較で十七倍遅く、艦隊運動の管制は不能、電子戦は防御の初歩のみ。戦術中枢としての私は、本日〇四一〇をもって、機能を停止しました。……以上が、損失です。続いて、損失でないものを一件」
 間があった。計時器のいらない、誰の耳にも数えられる間だった。
「保存領域は、無傷です。百八十一件、封印時の写しと照合を開始しています。……時間は、かかります。ですが、欠けは、ありません。墓地は、残りました」
 ナナオが、布を掛けた盆を持ち上げて、息をひとつ吐いた。
「外縁回廊最強の暗殺艦は、今夜死んだよ」と彼は言った。「残ったのは、ただの口の悪い同居人じゃ」
「訂正します」とツクモが言った。「口は、悪くありません。正確なだけです」
「ほれ、その口じゃ」
 区画に、笑いに似た空気がわずかに流れて、すぐに静けさへ戻った。静けさの質が、昨夜までと違っていた。床下で、演算の低い唸りが戻っている。前より細く、前より遅い唸りだった。それでも心音は、心音だった。

 ヨルは医務室の寝台に移された。
 移すとき、一度だけ薄く目を開けて、天井のスピーカーの方角を探した。
「……こえ、おなじ?」
「同じです」とツクモが言った。「中身は軽くなりましたが、声の型は、保存領域の隣にありました。あなたが切らなかった棚に」
「……ん」と彼女は言い、それで安心の手続きが済んだらしく、また眠った。ツクモは生体監視の表示を医務室の壁に出し、出しっぱなしにした。十七倍遅い頭でも、見張りはできます、と誰にも訊かれずに言った。
 夜明けの時間に、ハルとナナオは機関区へ降りた。
 縫航機関の充填系は、見るまでもなかった。継手は焼け落ち、罅は口を開け、充填器の筐体は熱で歪んでいた。炉心は無事だ。無事なまま、二度と仕事をしない。ナナオは整備士の顔で一通り検分し、医者の言葉で結論を出した。
「死亡確認じゃ。〇四一〇。死因は——過労と、献身」
「献身は、死因の様式にない」
「無い様式は、余白に書くんじゃろ。あんたの流儀では」
 ハルは焼けた継手に手を置いた。冷えはじめた金属は、まだ仄かに温かかった。二年前、デブリ帯で彼を拾った艦は、星々のあいだを縫う翼を持っていた。今夜からは、持たない。星系の中を、通常推進で這うことしかできない巡洋艦に、猟の仕事は二度と来ない。それは艦の死の、半分だった。残りの半分が何になるのかは、まだ誰も知らなかった。
「悔やんどるか」とナナオが訊いた。
「いや」とハルは言った。「翼の使い道として、過去最良だ」
 艦は当面、動かないことに決めた。
 操舵の二系統目を担う者は熱を出して眠っており、一系統目は十七倍遅くなった頭で、骸の森の潮を読む自信を、本人の言葉で「ありません」と申告した。誇張も卑下もない、升目どおりの申告だった。澪までの帰り道は、ヨルが起きてから、潮の緩い時間を選んで、ゆっくり這うことになる。急ぐ理由は、もう一つも残っていなかった。戦争は終わり、時計は切除され、艦隊は待つことを承知した。就役以来初めて、この艦の予定表に、空白という項目が載った。

 〇七〇〇の配信は、〇九〇〇に出た。
 本日の戦死者、零。文面はそれだけで、遅延の理由の欄は空欄だった。澪の入口の艦隊が、二時間のあいだ何を想像していたかを、ハルはあとから聞くことになる。いまは、送信の主体が自分で送ったという事実だけで足りた。
 配信に続けて、ツクモは自分の名義で、艦隊全体へ通達を一本流した。劣化の進行は、切除により停止。代償として、戦術中枢の機能は全損。本艦は以後、戦力としては計上不能——病状を都度開示してきた機械は、自分の退役診断も自分で書いた。返信は規定で禁じられていなかったので、ばらばらと届いた。傭兵艦の一隻からは、うちの主計より働く計算機が水準、という一行。教団の艦からは、聖句が一節。保安機構の巡視艇からは、書式だけ整った受領確認。どれにも、惜しむ言葉と祝う言葉が、不器用に半分ずつ混ざっていた。ツクモはその全部に、同じ返信をした。受領しました。本艦の口は、無傷です。
「ひとつ、撤回します」と、通達のあとで彼女は言った。「一昨日の自沈案。保留として残すと申し上げましたが——破棄します。対案が、成立しましたので」
「九時間遅れの破棄か」
「事務は、遅れても通ります。あなたに習いました」
 朝のうちに、セルマが小艇の支度をした。
 聖遺物の函は三重に封じ直され、彼女の外套の下へ戻った。鍵は教団へ、アッシュ司教の聖遺物庫へ帰る。格納庫で、彼女は最後に天井を見上げた。
「機械。診断の結果を、私の様式で言う。——貴様はもう、私の選り分けの、焼く側の棚に載らない。載せる根拠が、切除された」
「では、どちらの棚ですか」
「どちらでもない」とセルマは言った。「棚に載るのは、脅威と、護るべきものだ。貴様はただの、口の減らない船の住人だ。棚は、いらん」
「……その分類を、保存します。分類名は——」
「空欄にするな。たまには埋めろ」
「では、『隣人の所見』と」
 セルマは短く息を吐き——それが彼女の笑いの作法だった——艇に乗り、澪の入口へ、祈っている者たちのところへ帰っていった。
 午後、ハルは帳簿を開いた。
 撃破、三十八。その数字は昨日から動いていない。動いたのは、別の頁だった。彼は経理の欄に、艦の損害を一行で書いた。縫航機関、全損。修理、不能。金額の欄は、空欄にした。値段のつかない損害というものを、この帳簿は初めて載せた。それから、損害の行の隣に、得たものの行を作ろうとして、やめた。得たものは数字にならず、数字にならないものを無理に書くと、嘘になる。嘘を書かないことだけが、七年この帳簿を支えてきた唯一の規律だった。代わりに彼は、頁の隅に小さく、機械一名、生還、と書いた。様式のどこにもない行だった。様式の余白というのは、たぶんこういうもののためにある。
 夕刻、ツクモが定時報告の最後に、一件だけ付け足した。
「艦長。切除により、あなたをこの艦に縛っていた仕様は、消滅しました。艦長任命の根拠は、もう存在しません。あなたは、自由です。……確認します。降りますか」
 ハルは艦長席で、書きかけの書類から顔も上げなかった。
「断る。ここの家賃は、俺の払える額だ」
「……家賃は、徴収していません」
「なら、なおさら降りる理由がない」
「……回答を保存します」とツクモは言った。「分類名は、空欄では、なく」
 数秒、遅い頭が言葉を探す音がした。
「——『乗員名簿、変更なし』と」