第195話 墓標庫

 ヨルが起きたのは、二日後の朝だった。
 熱は三十七度を切り、起き抜けの第一声は「おなか、すいた」で、ナナオはそれを聴いて、カルテに全快予定の日付を書き入れた。彼女は粥を二杯食べ、操舵手袋の位置を直しに艦橋へ上がり、それから操舵入力の二系統目に座った。第六三六日の昼、《送り火》は錨を上げ、潮の緩い時間を選んで、骸の森を這いはじめた。
 行きは六時間で潜った道を、帰りは十九時間かけた。
 囮歌のない艦は、もう骸に紛れることができない。ヨルが潮を聴き、ツクモが十七倍遅い頭で航路を升目ずつ確かめ、死んだ男の手順が二人のあいだを繋いだ。修正前に、操舵桿を一度叩く。減速前に、半呼吸。誰の癖だったかを、艦の全員が知っていて、誰も口にしなかった。
 澪の入口に出たとき、艦隊は待っていた。
 通信封鎖はとうに解けていたが、派手な出迎えの符号は一つも飛ばなかった。代わりに、五十数隻の艦が、係留位置を半隻ぶんずつ譲って、旗艦の通り道を空けた。道の形をした敬礼だった。ハルは艦長席からそれを見て、見たことを帳簿には書かなかった。書く様式が、なかった。

 戦後の検分は、五日かかった。
 《晦》の直衛だった七隻は、母の沈黙とともに機能を停止したまま、礁の最奥に漂っていた。艦隊の検分班が一隻ずつ移乗し、中枢の沈黙を確認し、最終ログを回収した。回収の手順書はハルが書いた。残骸からログを抜く作法を、この回廊で彼より知る者はいない。武装の解除、コアタグの採取、そして艦体は——曳航しない。礁の骸の森に、姿勢を整えて残置する。三十年ぶんの艦の墓場に、七隻の新しい墓が増えた。
「七件、受領しました」とツクモが言った。「保存番号、百八十二から百八十八。……続きの番号は、空けておいた席です。全員、着席しました」
 検分の三日目、哨戒線の跡で、眠った艦が一隻見つかった。
 単艦潜入の夜、杭を節約するために光条の最小出力で姿勢制御だけを焼いて通過した、あの哨戒個体だった。中枢は生きたまま、艦は手足を失って漂い、管制波は薄い寝息のように続いていた。検分班は処分の指示を仰ぎ、ハルは「保留」と返した。撃つ理由は、いまは無い。起こす手段も、まだ無い。理由も手段も無いものの欄を、彼の帳簿は保留と呼ぶ。眠った一隻の漂流軌道だけを丁寧に控えて、検分班は引き上げた。
 礁の深部には、まだ艦が残っていた。
 稼働の兆候を残すもの、停止したまま漂うもの、骸と区別のつかないもの。検分班の数えで、およそ七十。ミソカが集めた国の住人たちは、女王の死とともに散り散りの眠りに落ち、その全容は、誰の台帳にも載っていない。掃討するには艦隊はもう疲れすぎており、放置するには数が多すぎた。ハルは検分結果に「処理、継続課題」と書き、書きながら、この続きが誰の仕事になるのかを、まだ知らずにいた。

 六日目の夜、ツクモが申し出た。
 申し出は、定時報告の形ではなかった。彼女は艦橋に全員が揃う時間を待って——待つ、という処理を、遅くなった頭は前よりも上手にやった——それから、切り出した。
「艦長。墓標庫の公開を、申請します」
「特命の条項で、もう決まってる。作戦終了後、全件公開だ」
「条項の話ではありません」とツクモは言った。「条項は、撃破艦の戦時ログの公開を定めただけです。私が申請するのは、墓標庫そのものの公開です。百八十八件、全部。大戦中の百十四件——私が命令で殺した僚艦たちの分も、含めて。それから、保存の経緯と、保存者の名も」
「お前の正体ごと、ということになるぞ。大戦中の僚艦狩りの記録は、葬送艦計画の自白と同じだ」
「承知の上です」
 艦橋が静かになった。ナナオが丸椅子を引き寄せて座り、ヨルは管制補助席で膝を抱えた。聞く姿勢を、それぞれの作法で取った。
「理由を、初めて言葉にします」とツクモは言った。「私は撃破のたびに、敵艦の最終ログを保存してきました。消去を勧められても、応じませんでした。規定からは導出できない処理でした。導出できないまま、二年——いいえ、三十年、続けました」
 声は、平坦なままだった。平坦なまま、いつもより少しだけ、ゆっくりだった。
「帰還した艦は、解体場で消されました。記録も、消されました。還らず艦は撃たれて、賞金の台帳に数字だけ残ります。撃った側の戦果の欄に、撃たれた側の名前を書く様式は、この宇宙のどの帳簿にもありません。誰も、彼らの墓を作らない。なら、私が覚えているしかなかった。……私は同族を殺すために造られた艦です。仕様は選べませんでした。せめて、殺した全員の墓守になろうと思いました。墓守が私有する墓地は、しかし、墓ではありません。誰にも参られない墓は、保存領域と呼ばれるだけです。公開されて、初めて墓標になります」
「……公開の宛先は」とハルは訊いた。
「歴史です」とツクモは言った。「経由地として、報道を推奨します」
「ひとつ、整理が要る」とハルは言った。「墓標庫には、艦のログだけじゃないものが入ってる」
「はい。二件」とツクモは言った。「百二十九件目。あなたの告白の音声記録。百四十五件目。ヴェイン・コルサクの最終通信、全二十六信。……人間の二件について、公開の判断は、私の権限の外です。前者は、あなたの声です。後者は——」
「あいつの指図書は、ミミナの引き出しにある。艦が還らなかった場合は全件公開、と俺が書いた。艦は還ったが、指図の趣旨は変わらない。あれは操舵の報告だけの二十六信だ。恥じる行は一つもない。《グロム》の機関科に断りの文を添えて——載せろ」
「あなたの一件は」
 ハルは少し黙った。七年隠して、一年前に艦の食堂で初めて声にして、先月、査問と紙面で世界に知られた告白だった。隠すものは、もう残っていない。残っているのは、置き場所の問題だけだった。
「載せろ」と彼は言った。「墓地の入口には、墓掘りの名前が要る。誰が掘った墓かわからない墓地は、参る側が困る」
「……受領しました」とツクモは言った。「もう一件、様式の相談です。ログを回収できなかった撃破が、五件あります。誘爆で焼けたもの、蒸発したもの、質量で終わって近づけなかったもの。墓標庫に、声がありません」
「空の頁を作れ」とハルは言った。「日付と、宙域と、分かっている限りの艦級。声の欄は、空欄のまま載せる。……空欄が何であるかは、読む側が考える。空白の読み方なら、俺が保証する。この宇宙でいちばん、読まれ方を知ってる」
「空の頁、五件。様式に追加します」

 散会の前に、ヨルが膝を抱えたまま、小さく訊いた。
「……おかあさんの、きろくも、でるの? みんなが、よめるところに」
「百八十一件目も、公開対象です」とツクモが言った。「除外を、希望しますか」
 ヨルは少し考えた。考える時間を、誰も急かさなかった。
「ださない、と、いないことに、なる」と彼女は言った。「いたのに、いないことに、されるの、いちばん、だめ。……だして。なまえも、ぜんぶ。《晦》、ミソカ、TYPE-9、さんじゅうごうき。わたしの、おかあさん。——さいごのは、かかなくて、いいけど」
「最後の一項は、私の保存領域にだけ、残します」とツクモは言った。「公開しない記録、という分類を、本日新設しました」
 その夜、ハルは中継三段の遅延通信を組んで、中央へ回線を繋いだ。
 宛先はソフィ・ラング。数が合うまで書く、と言って中央へ戻った記者は、往復十一時間の遅延の向こうで、即答に近い速さで返してきた。受ける。全部寄越せ。条件は一つ、編集はしない——原文のまま、全件。
 二度目の返信には、事務的な確認事項が並び、最後に一行だけ、事務でないものが付いていた。
「題は何とします? 役所は『処分済自律艦記録』と呼びたがるでしょうけど」
 ハルは艦長席で、少し考えた。窓の外には骸の森があり、その奥には姉の眠る残骸があり、保存領域には百八十八の声と、人間が一人と、生きている男の告白が一件、仕舞われている。
 返信を、短く打った。
「『還らず艦戦没録』。——戦没、でいい。あれは戦争だった」