ヴェスタ港での密会から三週間、《薄明》はハイド・ステーションのドックに係留されたまま、動くことのない日々が続いた。オルコットにとって、艦を止めておくことほど落ち着かない時間はない。艦橋の主機関表示は常時待機モードの緑色に灯り、機関長のイズマは暇を持て余して、配管の点検を三度も繰り返したという。

「艦長、いい加減、機関がすり減ります。動かすあてもないのに、こう毎日空焚きされちゃ」

「もう少しの辛抱だ」

「いつも同じことを言ってますね、艦長は」

イズマは肩をすくめて格納庫へ戻っていった。オルコット自身も、待機の時間が長引くほど、神経が磨り減っていくのを感じていた。何もせずにいることが、時に何かを実行するよりも重い。艦長室の狭い寝台で過ごす夜は、いつも同じ思考の堂々巡りに終わった。セシルは無事か。ヴィスの着任はどこまで進んだのか。答えの出ない問いを抱えたまま、オルコットは日々、作戦本部からの呼び出しを待ち続けていた。

そして三週間後、マグダの部下が命がけで持ち帰った情報が、作戦本部の卓上に広げられた。

その部下の名は、記録上は残らない。潜入工作員というものは、そもそも名を残すために働く人種ではない。オルコットが聞いた限りでは、採掘企業の商船に三週間乗り込み、荷役作業員に紛れて要塞周辺を歩き回り、写真の代わりに記憶だけで図面の断片を持ち帰ったのだという。三週間、正体が露見すれば即座に処分される仕事だった。無事に戻れたことを、マグダは珍しく安堵の表情で報告した。

作戦本部の卓には、粗い手描きのホロ図が投影されていた。線の一部は震え、記憶を頼りに描いたことをそのまま物語っている。それでも、これまで手に入れたどの資料よりも精緻な情報だった。

デルフォス地下要塞は、旧世代の軍事施設を転用したもので、地表の採掘企業居住区の下、およそ800メートルの深さに位置していた。アクセスは表向き三箇所――採掘企業の物資搬入用エレベーター、旧軍用の緊急脱出坑道、そして正規の軍用連絡通路。

「正規の連絡通路は、当然ながら厳重に警備されている」

作戦立案を担当する退役技術士官が説明した。白髪頭のこの男は、かつて同盟軍工兵隊の設計主任だったという。引退後もこうした裏の仕事に関わっているのは、本人曰く「暇を持て余すよりはまし」ということらしかった。

「現実的なのは緊急脱出坑道からの侵入だ。ただし、この坑道は老朽化していて、地図上の情報が正確かどうかは保証できない」

部下から聞き取った証言をもとに描かれたという緊急脱出坑道の図には、換気口の位置や、老朽化した支柱の腐食箇所まで、細かく書き込まれていた。三週間、正体を偽って企業居住区に潜伏し続けた男の忍耐と恐怖が、その震えた線の一本一本に染み込んでいるように、オルコットには見えた。

「保管庁舎そのものの警備は?」

オルコットが尋ねると、技術士官はホロ図の一角を拡大した。投影された光の中に、幾重にも重なる隔壁の断面図が浮かび上がる。

「最深部、保管庁舎そのものは、三重の隔壁で守られている。生体認証、暗号鍵、そして最後は物理的な機械式ロック。電子的な手段だけでは突破できない設計だ」

「時代遅れな設計だな」

レフが呟いた。砲雷長として艦の火器管制を任されている男だが、今回の地上強襲作戦では、侵入班の一員としても名を連ねている。腕を組み、ホロ図を睨みながらの発言だった。

「いや、逆だ」

技術士官が首を振る。

「電子的なハッキングを想定していない、ということは、それだけこの施設が『何か特別なもの』を保管している証拠だ。普通の軍需物資なら、ここまで原始的な防御はしない」

オルコットはその言葉に、確信を強めた。安全弁――正規管制鍵と呼ぶべきものは、確かにここにある。数年前、あの実弾試験の事故現場で見た光景が、脳裏をよぎった。改竄された記録、隠された死者たちの数。あの日から、オルコットの中で燻り続けてきた確信が、今、輪郭を持ち始めている。

「地表の居住区との位置関係は」

「保管庁舎の真上、地表には採掘企業の居住区が広がっている。人口はおよそ12,000人。地下施設への侵入経路の多くが、居住区の地下インフラと隣接している」

マグダが渋い顔をした。装甲部隊を率いる女傑で、その顔つきには常に、現場叩き上げ特有の疑り深さが刻まれている。

「言った通りだ。民間人を巻き込まずに、ってのは簡単じゃない」

「巻き込まない。作戦の大前提だ」

オルコットは繰り返した。会議室の空気が、一瞬張り詰めた。誰もが、その言葉の重みを承知していた。12,000人の居住区の真下で、火器を用いた強襲作戦を行うということが、どれほどの綱渡りであるか。

「侵入は緊急脱出坑道から。地表の戦闘は最小限に留める。地上の陽動は、居住区から離れた採掘プラント跡地に限定する」

「陽動、ねえ」

マグダが腕を組んだ。

「わかったよ。うちの装甲部隊は、プラント跡地で連邦の地上防衛部隊を引きつける。艦長さんたちは、坑道から地下へ」

「その陽動についてだが」

オルコットは、セシルから伝えられた情報を思い出しながら口を開いた。

「先日、連邦側の防衛戦力が、居住区側からプラント跡地方向へ再配置されているという情報があった。もし本当なら、陽動そのものが待ち伏せに変わる危険がある」

マグダの表情が、わずかに険しくなった。

「初耳だな。うちの部下からは、そこまでの情報は上がってきていない」

「確度は高くない。だが、無視できる話でもない」

「なら、プラント跡地の下見をもう一度やる必要があるな。うちの部下を、もう一組出す」

「頼めるか」

「頼めるかって、もう頼まれてるようなもんだろ」

マグダは短く鼻を鳴らしたが、その口調には、これまでの作戦行動を共にしてきた者同士の、ある種の信頼が滲んでいた。

「――一つ聞いていいか、艦長さんよ」

マグダが声のトーンを落とした。

「うちの部下を、また一組出すって話だ。前の三週間組がどうにか無事に戻ってきたから、今度も同じ運が続くと思ってるわけじゃないよな」

「思っていない」

オルコットは即答した。

「運の話にはしたくない。だが、情報がなければ、もっと多くの人間を失うことになる。今の一組を送るのは、その先の被害を減らすためだ」

「そういう理屈は、いつも正しいけどな」

マグダは腕組みを解き、窓の外に目をやった。

「正しいことと、割に合うことは、別なんだよ」

オルコットは、それに対する明快な答えを持ち合わせていなかった。ただ、頷くしかなかった。

作戦の骨格が固まっていく。だがオルコットの胸には、拭いきれない不安があった。護送計画がまだ発動していない今、この情報がどこまで有効なのか。そして、マルコ・ヴィスという強硬派が指揮を執る現場で、本当に民間人を巻き込まずに済むのか。

会議室の窓の外には、ハイド・ステーションの外殻越しに、灰域特有の薄暗い星々が瞬いていた。恒星の光がほとんど届かないこの宙域では、星と呼べるものの大半が、遠い恒星系の残光を反射しているに過ぎない。オルコットは、その頼りない光を見つめながら、これまでの作戦で失われたものを数えた。密輸摘発で処刑された乗員五人。実弾試験事故の民間人犠牲者――正確な数は、改竄された記録のせいで今も分からない。そして、この先の強襲作戦で、新たに失われるであろう名前たち。

「――決行の時期は、護送計画の発動を待つ。焦るな」

オルコットは自分自身にも言い聞かせるように言った。

会議が終わり、各々が持ち場に散っていく中、レフだけがオルコットの傍らに残った。

「艦長、一つよろしいですか」

「なんだ」

「この作戦が終わったら、俺たちは何を守ったことになるんですかね」

唐突な問いに、オルコットは少し考えてから答えた。

「まだわからん。だが、少なくとも、誰か一人の国家が、生殺与奪の鍵を独り占めする未来よりは、ましなものになるはずだ」

「随分と、遠い目標ですね」

「遠いさ。だからこそ、今、目の前のことを一つずつ片付けるしかない」

レフはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと付け加えた。

「俺の従兄弟が、五年前の国境紛争で死にましてね。享年29、独身、遺品は艦内の私物ロッカー一つ分。連邦の砲撃で艦ごと消し飛んだそうです。記録には『任務中殉職』としか残ってない。あの時も、誰かが同じようなことを言ってたんでしょうね。ましな未来のため、とか」

「――すまん」

「謝ることじゃないですよ、艦長。ただ、俺は俺なりに、この作戦に乗る理由が欲しかっただけです。艦長の言葉で、それが見つかった気がします」

「見つかったなら、それでいい」

「ええ。それでいいです」

レフは小さく頷き、それ以上は何も言わずに会議室を出ていった。オルコットは一人、ホロ図の前に残り、三重の隔壁の断面図を、もう一度見つめた。生体認証、暗号鍵、機械式ロック――その先に何があるのか、まだ誰も実物を見た者はいない。だが、そこにあるはずのものが、この戦争になるかもしれない未来の行方を、確かに左右する。

窓の外、灰域の暗闇が、いつもよりわずかに重く、オルコットの肩にのしかかってくるようだった。ステーションの外殻を透かして見える光の粒は、恒星の光というより、遠い記憶の残滓のように頼りなく瞬いている。オルコットは、その光の一つ一つに、これまで失われた名前が刻まれているような錯覚を覚えた。密輸船の乗員五人、実弾試験の犠牲者たち、そしてレフの従兄弟。数え上げればきりがない。それでも歩みを止めるわけにはいかなかった。

会議室を出る前、オルコットはもう一度、ホロ図に描かれた三重の隔壁を目に焼き付けた。生体認証、暗号鍵、機械式ロック。その先にあるものを取り戻すまで、まだいくつの名前が積み重なることになるのか、今の彼には知る術がなかった。

(第15話へ続く)