待機の日々は、思いのほか長く続いた。護送計画がいつ発動するのか、正確な時期は誰にもわからない。オルコットは《薄明》での通常任務をこなしながら、ラスクやマグダとの連絡を絶やさずに待った。
哨戒航路は変わらない。灰域外縁の第七監視区画を往復し、燃料補給のためにハイド・ステーションへ戻る。その繰り返しの中に、待機という名の緊張だけが澱のように積もっていった。艦橋の主計器盤には航路図が絶えず投影され、緑色の光点が同じ楕円を描き続ける。オルコットはその軌跡を見るたびに、自分たちが同じ場所を回りながら、確実に何かへ近づいているのだという奇妙な感覚を覚えた。
《薄明》の艦内は静かだった。機関部の低い唸りと、換気系の一定なノイズ。乗員たちは表向き平静を装っていたが、誰もが待機の意味を理解していた。食堂では普段より会話が減り、代わりに端末を確認する回数が増えた。ダーナは毎朝、通信履歴を三度確認してから報告に来る。それが彼女なりの儀式なのだと、オルコットは気づいていた。
「艦長、本日も動きはありません」
「わかった。引き続き監視を」
短いやり取りが、何日も繰り返された。だが、それを退屈だとは誰も言わなかった。動きがないということは、まだ計画が発覚していないということでもあったからだ。
夜間当直の折、オルコットは一人で艦橋に残ることが多くなった。副長のダーナが交代を申し出ても、彼は「もう少し起きている」とだけ答え、灯りを落とした艦橋で計器の緑色の光だけを頼りに考え事をした。護送計画が発動すれば、待機の日々の何十倍もの速さで事態が動く。そのときになって迷いが生じては困る。だから今のうちに、迷いの種を一つずつ潰しておきたかった。
考えることは尽きなかった。マグダの残り火隊が地上戦で確実に死者を出すこと。鎮魂会が正統性の証人として立ち会うことの意味。そして何より、セシルが最後まで無事でいられるかどうか。答えの出ない問いを、オルコットは何度も反芻した。艦橋の壁面には、これまでの哨戒記録が淡々と流れていた。何事もない記録の羅列こそが、今のところ最も望ましい結果なのだと、彼は自分に言い聞かせた。
そんな夜、レフが差し入れの合成コーヒーを手に艦橋へ顔を出した。
「艦長、また一人で起きてるんですか。体に悪いですよ」
「お前もな」
「俺は弾薬庫の点検表と睨めっこしてただけです。艦長ほど重い荷物は背負ってません」
レフは軽口を叩きながらも、カップをオルコットの前に置くと、すぐに踵を返さず、しばらく窓の外を眺めていた。
「――発動したら、俺たちの中から何人かは、帰ってこないんでしょうね」
「わからない。だが、覚悟はしておけ」
「してますよ、とっくに。ただ、口に出すと少しは楽になるかと思って」
レフはそう言うと、小さく笑って艦橋を後にした。オルコットは冷めかけたコーヒーを一口飲み、再び計器盤に向き直った。
その間、セシルとの密会は月に一度のペースで続いていた。表向きは技術協議、実際には情報交換と、それ以上の何か。密会の場所は、緩衝域にある廃棄された中継ステーションだった。かつて連邦と同盟の双方が共同運用していたが、十数年前の予算削減で放棄され、以来どちらの管轄にも属さない灰色の空間になっている。老朽化した照明が明滅する通路を歩きながら、オルコットはいつも、この場所自体が二人の関係の比喩のようだと思っていた。どちらの国家にも属さず、しかし両方に近い。
「特務班の配置が、ほぼ完了したようです」
ある夜の密会で、セシルが緊張した面持ちで報告した。彼女の軍服の襟には、いつもより深い皺が寄っていた。長時間の移動と、寝不足の跡だろう。
「デルフォスの警備は、以前の三倍近い規模になっています。マルコ・ヴィスが直々に現地入りしたとも聞きました」
「三倍か」
オルコットは低く繰り返した。数字は具体的なほど重みを増す。以前の警備が守備隊二個中隊、およそ340名であったことは、すでにラスクの調査で把握していた。その三倍となれば、千名規模の兵力がデルフォスの地下要塞に集結しつつあるということになる。
「護送計画の発動は近いということか」
「おそらく。倫理制限設計チームにも、『近く重要物資の移送に伴う一時的な業務停止がある』という通達が来ました。名目は違いますが、時期的に一致します」
「業務停止の期間は」
「三週間。表向きは、施設の定期保守という説明です。ですが、定期保守にしては通達の出し方が急でした。普段は二か月前に告知されるものが、今回は十日前です」
オルコットは頷いた。動き出す時が近い。
「セシル、これから先はより危険になる。今なら、まだ引き返せる」
セシルは静かに首を振った。
「引き返しません。私は、あの日の集落の光景を、まだ忘れていません」
その言葉に、オルコットは数年前の記憶を思い出さずにはいられなかった。自律核実弾試験の巻き添えで消えた集落。名前も、正確な死者数さえも、連邦の記録には残されていない。だが彼は見た。焼け跡に転がっていた、子供用と思われる小さな靴を。あの光景がなければ、彼は今もただの叩き上げの艦長のままだっただろう。
彼女はオルコットの手をそっと握った。
「あなたも、忘れていないでしょう」
「忘れていない。忘れられるはずがない」
灰域の暗闇の中、二人はしばらく無言で寄り添っていた。敵対する二つの国家に属しながら、同じ光景を胸に抱えた二人だけが理解し合える、奇妙な連帯だった。窓の外には、恒星の光もほとんど届かない灰色の宙域が広がっている。星々は遠く、瞬きも鈍く、まるで世界そのものが二人の秘密に加担して息を潜めているようだった。
「――もし、これが終わったら」
オルコットが呟くと、セシルは小さく笑った。乾いた、しかしどこか温かみのある笑みだった。
「終わったら、何ですか」
「わからない。だが、終わらせよう」
その言葉は、約束にはなり得なかった。二人とも、それぞれの祖国に属する軍人であり、この任務の先に何が待っているのか、誰にも見通せなかったからだ。約束という言葉を使うには、二人はあまりに多くの不確実性を抱えていた。それでも、その不確実性ごと引き受けようとする意志だけは、確かにそこにあった。
中継ステーションの空調は古く、時折甲高い金属音を立てて振動した。その音が響くたびに、二人は無意識に言葉を止め、耳を澄ませた。誰かに聞かれているわけではないとわかっていても、この場所に流れる時間そのものが、常に何かに監視されているような緊張を強いてくるのだった。
「私からも、一つだけ言わせてください」
セシルが続けた。
「もし私が、途中で連絡を絶ったら――それは、裏切りではありません。捕まったか、それに近い状況だということです。その時は、あなたの艦と、あなたの部下を優先してください」
「セシル」
「約束してください、グレイ」
オルコットは長い沈黙の後、短く答えた。
「善処する、としか言えない」
セシルは苦笑した。
「それで十分です。あなたらしい返事だと思います」
密会を終え、オルコットは中継ステーションの外縁部にある小型艇の格納庫へ向かった。エンジンを始動させる前、彼はしばらく座席に座ったまま、灰域の暗闇を見つめていた。この宙域を、あと何回、こうして往復することになるのだろうか。答えの出ない問いを頭の中で転がしながら、彼は操縦桿を握った。
ハイド・ステーションに戻ったオルコットに、ラスクからの緊急連絡が届いたのは、それから五日後のことだった。通信は暗号化された短文で、開くまでの数秒間、オルコットは妙な緊張を覚えた。長く待った知らせは、届いた瞬間にこそ、最も重く感じられるものらしい。
『護送計画、発動確認。デルフォスへの移送開始まで、あと十二日』
作戦本部に招集された一同の顔つきが、一斉に引き締まった。マグダの残り火隊、鎮魂会からの立会人、そして《薄明》の乗員たち。それぞれの覚悟を胸に、長い準備期間の終わりが近づいていた。会議室の壁には、デルフォス周辺の立体航路図が投影され、緑と赤の光点がそれぞれの部隊の予定位置を示していた。誰も声を上げなかったが、部屋の空気は目に見えて張り詰めていた。
ラスクが淡々とした口調で続けた。
「発動から移送完了まで、連邦側の想定スケジュールでは十八時間。我々に許される猶予はそれだけだ。十二日後、その十八時間に全てを賭けることになる」
「十二日間で、詰めの準備を終える。異論は」
誰も何も言わなかった。会議室の隅に控えていた鎮魂会の立会人――グラン院長の代理を務める若い修道士アダムが、静かに手を組んで頭を垂れた。祈りなのか、覚悟を固めるための所作なのか、オルコットには判別がつかなかったが、その姿は不思議と場を落ち着かせる効果があった。マグダは腕を組んだまま、地上侵攻部隊の展開表に目を落としている。彼女の視線の先には、すでに死者の出ることを前提とした戦力配置図があった。誰もそれを口にはしなかったが、全員が同じ数字を見つめていた。オルコットは一同を見渡し、最後に自分自身に問いかけるように呟いた。
「――全艦、戦闘配置への移行準備を」
オルコットの声に、艦橋の空気が張り詰めた。灰域の均衡を賭けた作戦が、いよいよ動き出そうとしていた。彼は窓の外に広がる灰色の宙域へ目をやった。あと十二日。その先に何が待っているのか、まだ誰にもわからない。わからないまま、進むしかない道だった。
艦橋の時計は、ハイド・ステーション標準時で午前三時を示していた。あと十二日後の同じ時刻、自分たちはどこで何をしているのだろうか。オルコットはその問いに答えを出さないまま、当直の交代を告げる合図を鳴らした。
(第16話へ続く)