移送開始までの十二日間、作戦本部は昼夜を問わず稼働し続けた。
ハイド・ステーションの奥深く、かつては貨物中継用に使われていた区画が、急遽この作戦のための本部に改装されていた。壁には航路図と施設見取り図が幾重にも張り重ねられ、床には引き回されたケーブルが蛇のようにうねっている。人の出入りは絶えず、誰もが眠りを削って準備に当たっていた。オルコットがこの部屋に足を踏み入れるたび、酸味の強い合成コーヒーの匂いと、機材の発する熱気が鼻をついた。
《薄明》の艦橋では、レフが偵察データを基に、想定される護送艦隊の航路を幾通りもシミュレーションしていた。彼の端末の周りには、印刷された航路図が何枚も広げられ、赤鉛筆で書き込まれた修正線が幾重にも重なっている。
「護送艦隊の規模は、駆逐艦3隻、護衛艇6隻というのが最有力です。速度と跳躍炉のチャージ間隔から逆算すると、灰域外縁を大回りする航路が最も可能性が高い」
「大回りする理由は」
「緩衝域を避けたいんでしょう。こちらに存在を気取られたくない、という意図が透けて見えます」
「つまり、連邦もまだ、こちらの動きに完全な確信は持てていないということか」
「そう願いたいですね」
レフは端末を指で叩きながら続けた。
「駆逐艦の跳躍炉チャージ間隔は、確認できている限りで平均47分。護衛艇はもう少し短くて32分前後です。奇襲を仕掛けるなら、駆逐艦のチャージが同期する瞬間を狙うのが理想ですが、そんな都合のいいタイミングは向こうも警戒しているでしょう」
「連続隠蔽時間の見積もりは」
「こちらの艦の冷却系だと、最大でも六時間が限度です。それ以上潜んでいれば、熱源反応で向こうに拾われる。奇襲までの潜行時間は、六時間以内に収めなければなりません」
オルコットは頷いた。数字は具体的であるほど、計画に現実味を与える。六時間、47分、32分――そのどれもが、これから先の作戦の骨格を成す数値だった。
レフは航路図の一点を指でなぞりながら、声を落とした。
「艦長、正直に言うと、シミュレーションは何度回しても、被害ゼロという結果は一度も出ません。最良のケースでも、護衛艇一隻は取り逃がすか、こちらに損傷を与えてから離脱させることになる」
「想定される最悪のケースは」
「駆逐艦のうち一隻が、予定より早くチャージを終えて追撃態勢に入るケースです。その場合、我々は交戦を続けながら地上部隊の撤収を援護しなければならない。正直、綱渡りです」
「綱渡りでも渡るしかない」
「ええ、わかってます。だから弾薬を積み増したわけで」
レフは肩をすくめ、端末の画面を切り替えた。数値の羅列が並ぶ画面を見つめる彼の横顔には、いつもの軽さとは違う、静かな緊張が滲んでいた。
ダーナが端末を操作し、地上侵攻部隊の編成表を投影した。彼女の目の下には濃い隈があり、この十二日間、まともに眠れていないことは明らかだった。
「マグダの残り火隊、地上戦闘要員は280名。装甲車両12両。加えて、鎮魂会から立会人としてグラン院長の代理が同行を希望しています」
「立会人?」
「鍵が奪取された瞬間から、正当な引き渡しの証人になる、とのことです。院長いわく、『盗んだものではなく、託されたものにするために』」
オルコットはその言葉の意味を噛みしめた。単なる強奪ではなく、正統性を持った移譲にする――それがグランの流儀なのだろう。台帳に名を残さぬまま、しかし手続きとしての正しさだけは確保する。矛盾しているようで、実際には筋の通った態度だった。
「代理は誰が」
「アダムという若い修道士です。まだ二十代半ばだと聞いています。院長は本人が同行することも考えたそうですが、万一の際に鎮魂会全体を巻き込む危険を避けるため、代理を立てることにしたと」
「危険を承知の上での人選か」
「本人は志願したそうです。断られても食い下がったと、院長からの手紙にありました」
オルコットは短く息をついた。誰もが、何かを賭けてこの作戦に加わっている。それは連邦側から寝返ったセシルも、家族に何も告げず艦に残ったイズマも、同じことだった。
準備の合間、オルコットは乗員一人ひとりと言葉を交わした。機関部へ降りると、熱気と油の匂いが充満していた。機関長のイズマは、家族に何も告げずに来ていた。彼の手は油で汚れ、額には汗が滲んでいたが、その目つきは普段よりも鋭かった。
「艦長、聞かないでください。聞かれると、辞退したくなる」
「すまない」
「謝らないでください。俺は俺の意思でここにいます」
イズマは跳躍炉の点検パネルを閉じながら、独り言のように付け加えた。
「うちの子はまだ七つです。父親が何をしているか、聞かれても答えようがない。だから、聞かれる前に出てきました」
オルコットは何も言わず、ただ頷いた。この十二日間で、こうした言葉を何度受け取っただろうか。どれも軽々しく応じることのできない重さを持っていた。
イズマは跳躍炉の出力計を見つめながら、ふと口調を変えて尋ねた。
「艦長は、この作戦が終わったら、どうするつもりですか」
「考えていない。まずは終わらせることだけを考えている」
「そうですか。俺もそうします」
イズマはそう言うと、点検作業に戻った。彼の背中は、家族への言葉を飲み込んだ分だけ、いつもより固く見えた。機関室を出る間際、オルコットは振り返って一言だけ付け加えた。
「終わったら、家族に何を話すか、一緒に考えよう」
イズマは振り返らなかったが、肩の力がわずかに緩んだのが、後ろ姿からでもわかった。
砲雷長のレフは、いつも通りの軽口を叩きながらも、装備の点検には普段の倍の時間をかけていた。弾薬庫の通路には、規定数を超える予備弾薬箱が整然と積み上げられている。
「艦長、副砲の予備弾薬、規定より多めに積んでおきました。何が起きるかわからないんで」
「頼りにしてる」
「頼られるのは嫌いじゃないですよ。ただ、使わずに済むならそれが一番なんですけどね」
レフは弾薬箱の一つを軽く叩き、乾いた金属音を響かせた。彼のその仕草には、緊張を紛らわせようとする意図が見え隠れしていた。
七日目、マグダから連絡が入った。通信は雑音混じりだったが、彼女の声には揺るぎがなかった。
「地上部隊の展開準備、完了した。プラント跡地への陽動位置に潜伏中だ」
「損耗の見積もりは」
「装甲車両1両を失う可能性を織り込んでいる。人員については、最悪でも一割程度の死傷を想定しておけ。うちの隊は、そういう仕事を長くやってきた。覚悟はできている」
一割、という数字が、280名という総数に重なった。28名。オルコットはその数字を頭の中で反芻し、それ以上何も言わなかった。言葉にすれば、覚悟が現実になってしまう気がしたからだ。
「オルコット、一つ聞いていいか」
マグダの声が、通信越しにわずかに硬さを帯びた。
「何だ」
「お前は、これが終わったら、何を残すつもりだ。俺たちは名も残らない戦いをしている。台帳にすら載らない」
「わからない。だが、鍵が正しい場所に収まれば、それで十分だと思っている」
「――お前らしい答えだ」
マグダは短くそう言うと、通信を切った。オルコットはしばらくその余韻の中で、彼女の問いを反芻していた。名を残さない戦い。それでも、誰かがやらねばならない仕事だった。
十日目、ラスクから最終確認。
「護送艦隊の出発予定、確定しました。三日後、デルフォス標準時0400。移送完了まで、およそ18時間の作戦です」
「奇襲のタイミングは」
「出発から6時間後、灰域外縁の第三変針点を予定しています。護衛艇のチャージ間隔が最も間延びする地点です」
十一日目の夜、オルコットは艦長室で、セシルから届いた最後の暗号通信を開いた。狭い艦長室には、机上の端末が放つ淡い光だけが灯っていた。窓の外には、いつもと変わらぬ灰色の宙域が広がっている。
『護送ルート、最終確認取れました。デルフォス到着後の保管庁舎への搬入経路も添付します。……無事に、お会いできることを願っています』
短い文面の最後に、彼女らしい静かな祈りが添えられていた。オルコットは添付された搬入経路図に目を通した。保管庁舎の地下三階、記憶結晶保管室までの動線が、赤い線で丁寧に示されている。この一本の線を描くために、彼女がどれほどの危険を冒したか、想像するだけで胸が締め付けられた。
彼は返信を打とうとして、指を止めた。何を書いても、今の状況には軽すぎる気がした。結局、短く一言だけを返した。
『了解した。互いに、生きて会おう』
送信を終えると、オルコットは通信を閉じ、艦橋へ向かった。通路を歩く間、機関部の低い唸りが足元から伝わってきた。あと一日で、この静かな稼働音も、戦闘の轟音に変わる。
「総員、配置につけ。作戦開始まで、あと一日だ」
オルコットの声は艦内放送を通じて隅々まで届いた。返答の声はなかったが、各区画から伝わってくる緊張した気配だけで、彼には十分だった。艦橋の窓の外、灰域の暗闇には、いつもと変わらぬ星々が瞬いていた。その静けさが、これから起きることの前触れだとは、誰にも信じがたいほどだった。
ダーナが最後の点検報告を読み上げる声が、艦橋に低く響いた。全区画異常なし、燃料満載、弾薬定数超過。オルコットはその一つ一つに頷きながら、窓の外の暗闇を見つめ続けた。十二日間という時間は、こうして数えてみれば短いようで、実際には一つ一つの覚悟を積み上げるには十分な長さだったのかもしれない。あとは、その積み上げたものを、明日の十八時間にぶつけるだけだった。
(第17話へ続く)