地下要塞最深部、三重隔壁の手前。オルコットはマグダとともに先頭に立ち、残り火隊の精鋭を展開させていた。狭い前室には、隊員たちの吐く息が白く浮かび上がるほどの冷気が満ちている。誰も口を開かず、ただ端末を操作する指の音だけが響いていた。
前室の壁には、この施設が現役だった頃に使われていたであろう表示パネルが残っていたが、電源は落ちて久しく、埃を被った黒い板でしかなかった。オルコットはその横に立ち、腕時計代わりの端末で経過時間を確認した。坑道進入からすでに二十二分。連続隠蔽時間の限界まで、まだ猶予はあるが、無限にあるわけではない。アダムは少し離れた場所で、静かに佇んでいた。彼の役目は、鍵の確保が確認された瞬間に立ち会い、記録を残すことだ。今はまだ、その出番ではない。
「暗号情報、入力する」
技術担当の隊員が、セシルから提供された最新の暗号鍵を端末に打ち込んでいく。額に汗が滲んでいた。長い数字と記号の羅列を、一文字も間違えぬよう、慎重にキーを叩く。オルコットはその背中を見つめながら、拳を握りしめていた。この情報が古ければ、警報が作動し、全てが水泡に帰す。ここまでの全て――ダーナが預かった艦、マグダの部隊が払った犠牲、そして何より、セシルがどこかで冒しているであろう危険――その全部が、この数十秒にかかっていた。
端末の画面には、暗号鍵の入力欄と並んで、更新時刻を示す数字が表示されていた。セシルが最後に情報を送ってきたのは六時間前。暗号鍵の更新周期を考えれば、ぎりぎり間に合っているはずだった。だがそれも、あくまで想定に過ぎない。もし連邦側が更新周期を早めていたら――そこまで考えて、オルコットは思考を打ち切った。今できることは、ただ待つことだけだった。
「――解除、確認」
一枚目の隔壁が、重い音を立てて開いた。油圧の抜けるような低い音と共に、扉の隙間から埃混じりの空気が流れ出す。オルコットは詰めていた息を、静かに吐いた。まだ二枚残っている。
「二枚目、生体認証。管理責任者一名のみが登録されているとのことでしたが……」
「偽装するしかない。用意した合成サンプルを使え」
セシルが事前に流していた情報の中には、鍵の管理責任者の生体データの断片も含まれていた。彼女がどうやってそれを入手したのか、オルコットは深く考えないようにしていた。考えれば、彼女がどれほどの危険を冒しているか、実感してしまうからだ。倫理制限設計チームに所属する彼女が、管理責任者個人の生体情報にアクセスする権限を持っているとは思えない。つまり、彼女は自分の職掌を超えた場所にまで手を伸ばし、それを持ち出したということだ。発覚すれば、単なる情報漏洩では済まない罪に問われるだろう。
オルコットは技術交流会議で初めて彼女と言葉を交わした夜のことを、ふと思い出した。あのときの彼女は、自国の技術的優位について、控えめながらも誇りを滲ませて語っていた。今、その誇りの対象だったはずの技術体系に、彼女自身が風穴を開けようとしている。人がどれほど変わりうるものか、オルコットは改めて思い知らされる気がした。
合成サンプルを認証装置に接触させる。数秒の沈黙の後、緑色の表示灯が灯った。隊員の肩から、目に見えて力が抜けた。
「――通った」
二枚目の隔壁が開く。残るは、最後の物理的な機械式ロックだけだった。前室の空気が、わずかに動いた気がした。空調が生きているのか、それとも遠くの坑道から流れ込む風のせいなのか、オルコットには判別できなかった。ただ、この施設がまだ完全には死んでいないという実感だけが、肌に伝わってきた。
「電子的な手段は使えない。ここからは、純粋な技術だ」
錠前解除を専門とする隊員が前に出た。旧世代の機械式ロックは、電子ハッキングを想定していないぶん、逆に古典的な技術で攻略する余地があった。彼は工具を並べ、ロックの構造を確かめるように、慎重に指先を這わせていく。この施設が建造された時代、電子的な防御より物理的な複雑さの方が信頼されていたのだろう。皮肉なことに、その古さが今、突破口になっている。
「昔ながらのやり方が、一番効くこともあるってことだ」
マグダが軽口を叩いた。緊張をほぐすための冗談だと分かっていたが、オルコットは短く笑うことしかできなかった。今この瞬間、笑う余裕がどれだけ残っているか、自分でも測りかねていた。
その時、背後の通路から警報音が鳴り響いた。甲高い電子音が、坑道全体に反響する。
「――発見されました!警備兵、接近!」
オルコットは即座に指示を飛ばした。全身の血が、一気に冷えて、それから熱くなるのを感じた。
「時間を稼ぐ!錠前班はそのまま作業継続、他は迎撃態勢!マグダ、両翼を固めてくれ!」
「合点だ!」
狭い坑道内での近接戦闘が始まった。実体弾の跳弾が壁面を削り、火花が飛び散る。連邦軍の警備兵は、旧式のドローンとは違い、統制の取れた射撃で応戦してきた。曲がり角を利用して身を隠しながら、確実に弾を送り込んでくる。残り火隊の熟練兵たちは、狭所での戦闘に慣れており、着実に警備兵を制圧していったが、味方にも負傷者が出始めていた。誰かの短い呻き声が、銃声の合間に聞こえた。振り返る余裕はなかった。負傷者の手当ては、後方の隊員に任せるしかない。今この瞬間の優先順位は、ただ一つ――錠前班を生かし続け、隔壁を開けさせることだった。
先頭の警備兵が身を乗り出した瞬間、残り火隊の狙撃手がその肩口を正確に撃ち抜いた。倒れた男の後ろから、さらに二人が援護に現れる。狭い通路では、数の優位が生きにくい。一列でしか進めない構造が、かえって守る側に味方していた。オルコットはその構造を利用し、隊列を細く保つよう指示を出し続けた。
「隊列を崩すな!一列を保って、押し出せ!」
自分の声が、思いのほか通路によく響くことに、オルコットは場違いな驚きを覚えた。指示は的確に行き渡り、隊員たちは少しずつ、しかし着実に前進していった。
通路の照明が、被弾の衝撃で一つ、また一つと消えていく。暗がりが増すたびに、ヘルメットのライトの光が、より強く目に焼きつくようになった。オルコットは自分の呼吸の音が、やけに大きく聞こえることに気づいた。恐怖ではない、と自分に言い聞かせる。これはただの緊張だ、艦隊戦で感じるものと同じ種類の緊張だ、と。
「錠前、あとどれくらいだ」
「あと三分!急かさないでください、雑にやれば余計に時間がかかる!」
マグダ自身も前線に立ち、旧式の突撃銃を構えていた。壁際に身を寄せ、角の向こうから覗く警備兵の頭部を的確に撃ち抜く。長年の実戦経験が、その一挙一動に滲んでいた。
「錠前班を死なせるな!盾になれ!」
彼女の号令に応え、隊員たちが錠前班の周囲に壁を作るように展開した。実体弾が金属の遮蔽物に当たるたび、鈍い音と共に火花が散る。オルコットも拳銃を構え、通路の奥から現れる敵影を撃った。手応えと共に、一人が崩れ落ちるのが見えた。人を撃った感触は、何度経験しても慣れることがない。だが今は、それを噛みしめている時間はなかった。
「艦長、頭を下げてろ!指揮官が撃たれたら元も子もない!」
マグダが怒鳴った。オルコットは苦笑いを浮かべながらも、体勢を低くした。彼女の言う通りだった。ここでは自分は艦長である前に、部隊の一員として振る舞う必要がある。だが同時に、部下たちだけを矢面に立たせるわけにもいかない。その均衡を保ちながら、彼は次の敵影に狙いを定めた。
警備兵の数は、事前の想定よりやや多かった。おそらく、坑道内の警報が奥の詰所にも届き、増員が急遽呼び寄せられたのだろう。だが増援が到着するまでの時間差が、こちらにとってはわずかな猶予だった。マグダの部隊はその猶予を最大限に使い、着実に敵の数を減らしていった。
隊員の一人が肩を撃たれ、通路の隅にうずくまった。すぐさま隣の隊員が引きずるようにして遮蔽物の陰へ運び込み、止血帯を巻きつける。それでも彼は歯を食いしばりながら、片手で銃を構え続けていた。名前も知らないその隊員の意地に、オルコットは胸を突かれる思いがした。誰もが、それぞれの理由でこの坑道に立っている。
警備兵の増援がさらに二人、通路の奥から駆けつけてきた。マグダがすかさず擲弾を投げつけ、爆発の衝撃で二人はまとめて吹き飛ばされた。土煙と共に、金属片が壁に食い込む音が響いた。
「これで奥からの増援は途絶えたはずだ!」
マグダが叫んだ。だが、その言葉通りにいくかどうかは、まだ分からなかった。この施設のどこかに、さらに多くの守備兵が潜んでいるかもしれない。オルコットは油断なく周囲を警戒しながら、錠前班の作業の進み具合を確認した。
数分間の激しい応酬の末、機械式ロックが最後の音を立てて解錠した。カチリという小さな音が、銃声の合間に、はっきりと耳に届いた。
「――開いた!」
最後の隔壁が、ゆっくりと開いていく。軋む音と共に、扉の奥から、これまでとは違う、乾いた静けさを含んだ空気が流れ出してきた。銃声はまだ背後で散発的に続いていたが、警備兵の数は目に見えて減っており、マグダの部隊がその場を制圧しつつあった。
負傷した隊員たちも、後方で応急手当を受けながら、まだ戦線を支え続けていた。誰一人として、この場から脱落しようとする者はいない。オルコットはその光景に、言葉にならない敬意を覚えた。
「行け、艦長!ここは私たちが持ちこたえる!」
マグダが叫んだ。オルコットは頷き、アダムに目配せをした。二人は隔壁の奥へと足を踏み入れる。その奥に広がる保管庁舎の光景を、まだ誰も目にしていなかった。
(第23話へ続く)