迂回航路は、灰域の外縁をさらに大きく回り込む、通常の倍近い距離の行程だった。連邦の哨戒網を避けるため、《薄明》は連続隠蔽時間を最大限に活用しながら、慎重に進んでいた。艦内の照明は必要最小限に絞られ、乗員たちの声も自然と小さくなっていた。
通常の哨戒任務であれば、この程度の迂回は珍しくもない。だが今回は、艦の腹の中に、国家の運命を左右しかねない荷物を抱えているという事実が、あらゆる判断の重みを何倍にも増幅させていた。オルコットは艦長席に座りながら、普段は意識しないはずの艦の振動や、機関の唸りの一つ一つに、これまで以上に神経を尖らせている自分に気づいた。
食堂からは、いつもより静かな食器の音だけが漏れ聞こえてきた。乗員たちも、この任務の特殊さを敏感に感じ取っているのだろう。誰も軽口を叩かず、必要最低限の会話だけが交わされていた。
通路を歩く足音さえ、いつもより控えめに聞こえた。オルコットは艦内を巡回するたび、乗員たちの表情に浮かぶ緊張の色を見て取った。誰もが平静を装いながら、その奥では張り詰めた糸のような集中を保っている。それは、戦闘配置の緊張とはまた違う、静かで持続的な圧力だった。
すれ違った若い乗員の一人が、オルコットに気づいて小さく敬礼した。その仕草にも、いつもよりわずかに硬さが見て取れた。オルコットは頷き返しながら、彼らにこの重圧を強いているのは他ならぬ自分の判断なのだと、改めて自覚した。
「艦長、冷却系の負荷が上昇しています。連続隠蔽時間は残り15分」
「一旦、隠蔽を解除する。冷却を優先しろ」
隠蔽状態を維持し続ければ、いずれ冷却系が限界を迎え、逆に発見されやすくなる。潜行と顕在化を繰り返しながら進むしかなかった。隠蔽を解除する瞬間、艦体のわずかな振動と共に、冷却系が唸るような音を立て始めた。しばらくの間、艦は無防備な状態に晒される。
機関長からの報告が、定期的に艦橋へ上がってきた。
「冷却系、温度低下を確認。あと十分ほどで、再び隠蔽状態へ移行できます」
「頼む。無理はさせるなよ」
「承知しています。この艦を壊すわけにはいきませんから」
短いやり取りの中にも、機関長の職人的な自負が滲んでいた。この十年落ちのフリゲートを、限界ぎりぎりまで働かせながら、決して壊さない。それが彼の誇りだった。
オルコットは機関の唸りに耳を澄ませた。古い艦特有の、わずかに不揃いなリズム。長年この艦に乗ってきた者だけが聞き分けられる、健全な稼働音だった。その音が今は、いつも以上に頼もしく感じられた。
「連邦哨戒艦、右舷方向、距離42,000。こちらには気づいていない模様」
「そのまま静かにやり過ごす」
センサー要員が、息を殺すようにして計器を見つめ続けていた。距離が縮まるでも遠ざかるでもなく、平行するように航路が交わる。その均衡が崩れれば、次の瞬間には発見の危機が訪れる。オルコットは自分の心拍数が、目に見えない相手の動きに合わせて、静かに上下しているのを感じた。
「――距離、変化なし。通過します」
しばらくして、その報告が届いた。艦橋の空気が、わずかに緩んだ。
艦橋には、これまでにない緊張が続いていた。鍵という重すぎる荷物を抱えたまま、いつ発見されるかわからない航路を進む――それは、艦隊戦以上に神経をすり減らす任務だった。何かを撃つでも撃たれるでもなく、ただ息を潜めて時間をやり過ごす。その静けさの中にこそ、オルコットはこれまでとは違う種類の恐怖を感じていた。
戦闘であれば、少なくとも自分の判断と技量で状況を動かせる余地がある。だが、ただ隠れて進むしかないこの状況では、運の要素があまりに大きい。センサーに映る哨戒艦の光点の一つ一つが、いつ気まぐれに針路を変え、こちらを捕捉するかもしれない。その不確実性が、オルコットの神経を静かに、しかし着実に削っていった。
艦長席に座り続けることしかできない自分に、オルコットは時折、奇妙な無力感を覚えた。地上での戦闘であれば、自分の手足を動かして状況に対処できる。だが艦の指揮官という立場は、多くの場面で、ただ待つことしかできない。今はまさにその典型だった。
計器盤の緑色の光が、艦長席の周囲をぼんやりと照らしていた。オルコットは自分の指先が、無意識のうちに肘掛けの縁をなぞっていることに気づき、その動きを止めた。こんな些細な癖にまで、今の緊張が表れているのかと思うと、彼は小さく自嘲した。
「艦長」
ダーナが静かに声をかけた。
「セシルさんから、何か連絡は」
「――ない。この数日、連絡が途絶えている」
オルコットの声には、隠しきれない懸念があった。護送計画の発動以来、セシルとの定期連絡は続いていたが、デルフォスでの奪取事件以降、彼女からの通信が完全に止まっていた。艦長室の端末を開くたびに、彼はまず彼女からの通信がないかを確認する癖がついていた。そのたびに、何もない画面を見て、小さな失望を重ねている。
「連邦内部で、情報統制が敷かれているせいかもしれません。無理に連絡を取ろうとすれば、かえって彼女を危険に晒します」
「わかっている」
オルコットは短く答えたが、内心の不安は消えなかった。彼女が疑われているのではないか、すでに拘束されているのではないか――考え出せば、きりがなかった。技術交流会議で初めて出会った夜、彼女が見せた控えめな笑みを思い出す。あの笑みが、今もどこかで無事でいてくれることを、祈るしかなかった。
敵国の技術士官と、同盟の艦長。本来なら、言葉を交わすことすら許されない間柄だった。それでも彼女は、自国の隠蔽体質に疑問を抱き、危険を承知でこちらに手を差し伸べてきた。彼女の勇気に応えるためにも、この鍵を無事に届けきらなければならない。オルコットはその思いを、改めて自分の中で確かめた。
もし彼女がこの場にいたら、今の状況をどう分析するだろうか。倫理制限設計チームで培った彼女の冷静な分析力は、艦橋の誰よりも的確に、連邦側の意図を読み解けるかもしれない。そんな詮無い想像が、オルコットの頭をよぎった。
「――今は、任務に集中する」
彼は自分に言い聞かせるように呟いた。だがその言葉とは裏腹に、意識の隅では常に彼女のことが離れなかった。
航路の三分の一を過ぎた頃、レフが緊張した声を上げた。
「艦長、前方に連邦の哨戒網、密度が急激に上がっています。まるで、こちらの航路を予測していたかのような配置です」
オルコットの背筋に、冷たいものが走った。
「――偶然か、それとも」
「わかりません。ただ、このまま進めば、いずれ発見される可能性が高いです」
《薄明》は速度を落とし、慎重に代替経路を模索し始めた。見えない包囲網が、少しずつ狭まっているという実感が、艦橋の誰の胸にもあった。センサー要員が、額に滲む汗を拭いながら、絶えず変化する哨戒網の密度を読み取り続けている。誰も口には出さなかったが、この状況が偶然の産物ではないという疑念は、艦橋全体に静かに広がりつつあった。
護衛の残り火隊艦艇からも、緊張した報告が届き始めていた。彼らもまた、この哨戒網の異様な広がり方に、言葉にならない不安を感じているようだった。艦隊全体が、見えない糸に絡め取られていくような感覚を、オルコットは拭いきれずにいた。
ダーナがホロ図を指差しながら、低い声で言った。
「艦長、この密度の上がり方……まるで、私たちの想定航路をあらかじめ知っていたかのようです」
「情報が漏れている、ということか」
「その可能性は否定できません。ですが、誰から、どこから漏れたのか、今は判断のしようがありません」
オルコットは奥歯を噛みしめた。まさか、セシルが強要されて情報を吐かされたのではないか――そんな疑念が一瞬よぎったが、すぐに頭を振ってそれを打ち消した。今はまだ、憶測で彼女を疑うべきではない。
考えられる可能性は他にもある。イオン・ラスクの周辺から漏れた可能性、あるいは残り火隊の内部に情報提供者がいる可能性。あるいは単に、連邦側の分析能力が、こちらの想定より優れていただけかもしれない。どの可能性も、確証を得るための材料が足りなかった。今はただ、最悪を想定して動くしかない。
「艦長、代替経路の候補が三つ。いずれも、通常より大きく迂回する必要があります」
「時間の余裕は」
「厳しいです。鎮魂会の巡礼船が、いつまで待機できるかにもよりますが」
オルコットは短く息を吐いた。焦りを顔に出すわけにはいかない。乗員たちの前では、常に落ち着いた指揮官でいなければならなかった。だが内心では、刻一刻と狭まる選択肢の中で、正しい判断を下せるかどうか、確信が持てずにいた。
窓の外に広がる灰域の暗闇を、オルコットはしばらく見つめた。何百回とこの光景を見てきたはずなのに、今日ほどその暗さが重く感じられたことはなかった。鍵という荷物の重さが、そのまま灰域の暗さに映し出されているような気さえした。
「――代替経路、三つのうち、最も哨戒密度の薄い区画から検討しよう」
「承知しました」
《薄明》は速度をさらに落とし、慎重な機動に移った。誰もが息を潜め、次の一手を待っていた。艦内の時間の流れが、いつもよりずっと重たく感じられた。誰も口を開かず、ただ計器の数値だけが、静かに変化を続けていた。
オルコットは目を閉じ、艦体を伝う微かな振動に意識を集中させた。機関の唸り、換気系の低い音、遠くで誰かが端末を操作するかすかな音――そのすべてが、いつもより鮮明に感じられた。静寂の中でこそ、艦は生きた存在としての気配を強く放つのだと、彼は改めて思い知らされていた。
(第28話へ続く)