デルフォス地下要塞への強襲から三日。連邦軍の反応は、オルコットの予想を超えていた。艦長室の窓越しに見える灰域は、いつもと変わらぬ静かな暗闇だったが、その静けさの裏で、見えない包囲網が着実に築かれつつあることを、オルコットは肌で感じていた。
この三日間、《薄明》は灰域の辺境を漂うようにして身を潜め、乗員たちの疲労を回復させることに努めていた。ダブレの戦死を含む被害の報告書には、まだ手をつけられずにいた。書こうとするたびに、彼の顔がうまく思い出せないことに気づき、そのたびにペンを止めてしまう。記憶というのは、こういうときに限って曖昧になる。オルコットはそのことに、小さな苛立ちと、深い悲しみの両方を覚えていた。
艦内の空気は、以前よりも冷えているように感じられた。実際の温度は変わっていないはずだったが、乗員たちの動きが心なしか硬く、足音までもがどこか慎重になっている気がした。オルコットは自分の掌に、うっすらと汗が滲んでいることに気づき、それを軍服の裾で拭った。
「艦長、灰域周辺の連邦軍配備が、明らかに変わっています」
偵察担当の士官が緊迫した声で報告する。彼が広げたホロ図には、これまでとは比較にならない密度で、連邦軍の配置を示す光点が並んでいた。
「哨戒艦の数がほぼ倍増。加えて、通常は展開されない電子哨戒網まで敷かれ始めています」
士官が示したホロ図の拡大表示には、灰域の広範囲にわたって、赤い点が濃密に散らばっていた。三日前まではまばらだった配置が、今ではほとんど隙間なく埋め尽くされている。この短期間でこれほどの規模の配備転換を行うには、相当な数の艦艇と人員を動員したはずだった。連邦にとって、それだけの犠牲を払ってでも取り戻したいものがある、ということだ。
「奪取事件が、公式に問題視されたということか」
「おそらくは。ただ、興味深いのは、連邦が『何を奪われたか』を一切公表していないことです。国内向けにも、対外的にも、完全な情報統制が敷かれています」
オルコットは頷いた。連邦にとって、正規管制鍵の存在自体が知られてはならない秘密なのだ。奪われた事実を公表すれば、その鍵が何のためのものか、いずれ追及される。沈黙こそが、彼らにとって唯一の対応策なのだろう。だが、沈黙を保ちながら軍を動かすという矛盾した行動が、逆に事態の深刻さを物語っていた。
情報を隠しながら、しかし実力行使は最大限に行う――それは、連邦という国家の体質そのものだと、オルコットは思った。数年前に目撃した、あの実弾試験の事故もそうだった。民間人の死者を出しながら、その記録は改竄され、表に出ることはなかった。今回もまた、同じ構造が繰り返されている。国家という機構は、都合の悪い事実を隠すことにかけては、恐ろしいほど一貫していた。
「つまり、連邦は静かに、しかし全力で取り返しに来る」
「その可能性が高いです」
問題は、鎮魂会への引き渡しだった。事前に想定していた航路は、今や連邦の哨戒網によって封鎖されつつあった。ホロ図に表示された哨戒密度の変化を見つめながら、オルコットは自分たちの選択肢が、日を追うごとに狭まっていく感覚を覚えた。
デルフォスでの奪取作戦は、あくまで序章に過ぎなかったのだと、オルコットは今更ながらに思い知らされていた。鍵を手に入れることの困難さは、想定の範囲内だった。だが、それを安全に届けきることの困難さは、まだ十分に見積もられていなかったのかもしれない。
ラスクからの緊急通信が届いた。暗号化された文面には、いつもの簡潔さの中に、わずかな焦りが滲んでいるように感じられた。ラスクという男が焦りを見せることは珍しい。冷徹な合理主義者として知られる彼が、それでも動揺を隠しきれずにいるという事実が、事態の深刻さを何よりも雄弁に物語っていた。
『予定していた引き渡し航路、危険度が急上昇しています。鎮魂会の巡礼船が灰域外縁で待機していますが、接触には迂回が必要です』
「代替ルートは」
『検討中です。ただし、時間をかければかけるほど、連邦の包囲網は狭まります』
オルコットは艦橋のホロ図を睨んだ。灰域を挟んだ哨戒網の密度が、日を追うごとに増している。まるで、見えない網が少しずつ絞られていくようだった。艦橋の乗員たちも、この数値の変化を毎日見せられ続けている。誰の顔にも、はっきりとした疲労の色が浮かび始めていた。
レフが低い声で呟いた。
「艦長、正直に言って、この哨戒網の広がり方は異常です。通常の警備強化とは、規模も速度も違いすぎる」
「連邦の本気度が、それだけ高いということだろう」
「――あるいは、鍵の重要性を、我々以上に理解している者がいる、ということかもしれません」
その言葉に、オルコットは何も言い返せなかった。連邦の上層部が、この鍵をどれほど重く見ているか、こちら側からは想像するしかない。だが、この異様な哨戒網の広がりようは、想像以上のものを物語っていた。
「マルコ・ヴィスという名前を、聞いたことがあります」
ダーナが控えめに口を挟んだ。
「連邦軍保安局の特務班長です。強硬な人物として、一部で知られています。今回の件に、彼が動いているとしたら――」
「厄介なことになる、ということか」
「はい。彼は、一度狙いを定めた獲物を、簡単には手放さない性分だと聞いています」
オルコットはその名前を、記憶の片隅に刻み込んだ。まだ直接顔を合わせたことのない相手だったが、いずれ避けて通れない相手になる予感があった。名前だけの存在が、これほど艦橋の空気を重くするというのは、珍しいことだった。顔も知らぬ男の輪郭を、オルコットは頭の中でぼんやりと描こうとしたが、結局は輪郭のない影のようなものしか浮かばなかった。
もしマルコ・ヴィスが本当にこの一件に関わっているのなら、連邦側の追跡は、これまでとは比較にならないほど組織的で執拗なものになるだろう。オルコットは艦橋の空気が、その名前一つでわずかに張り詰めるのを感じた。誰もが同じ懸念を、言葉にせずとも共有していた。
「マグダ、残り火隊の被害状況は」
通信越しに応答したマグダの声は、いつもより幾分低かった。
「デルフォスでの負傷者、順調に回復中だ。ただ、うちの根城周辺にも、連邦の哨戒機らしき影がちらついてる。潜伏場所を疑われ始めてるかもしれない」
「――急ぐ必要があるな」
オルコットは決断した。時間をかけるほど不利になるのなら、多少の危険を承知の上で、動くしかない。彼はしばらくの間、ホロ図に映る哨戒網の変化を、無言で見つめ続けた。安全な道など、もはやどこにもない。あるのは、より危険な道と、さらに危険な道の二択だけだ。それならば、少しでも早く動いた方がいい。
「アダム殿にも伝えてくれ。近く出立することになる、と」
「承知しました」
「鍵は《薄明》に保管したまま、少数の護衛のみで迂回航路を取る。大規模な艦隊行動は、かえって連邦の目を引く」
「危険な賭けだね」
マグダの声には、皮肉と本気の両方が混じっていた。
「今の状況で安全な選択肢なんて、もう残っていない」
オルコットは静かにそう答えた。デルフォスで得たものを、無駄にするわけにはいかない。ダブレという名の兵士が払った代償を、意味のあるものにするためにも、鍵を確実に鎮魂会へ届ける必要があった。
「マグダ、お前たちの根城のことも気にかかる。無理に護衛につかせるつもりはない」
「馬鹿言うんじゃないよ。ここまで付き合っておいて、最後だけ手を引くほど薄情じゃないさ。うちの根城の心配は、うちでなんとかする」
マグダの声には、いつもの気の強さが戻っていた。オルコットはその声に、わずかながら救われる思いがした。彼女たちの根城――残り火隊が長年拠点としてきた場所も、今回の作戦に協力したことで、これまでとは違う危険に晒され始めている。それでも彼女は、弱音の一つもこぼさなかった。
《薄明》は最小限の護衛――残り火隊の艦艇2隻とともに、灰域の外縁を大きく迂回する航路を取り始めた。連邦の哨戒網の隙間を縫うように進む、静かな逃避行の始まりだった。艦橋には、これまでの艦隊戦とはまた違う種類の緊張が漂い始めていた。撃ち合う緊張ではなく、見つからないようにするための緊張――それは、オルコットにとってもまだ慣れない種類のものだった。
出立の準備が整うと、艦内には慌ただしい足音と、機材を固定する音が響いた。乗員たちは誰もが、これから始まる長い航路の困難さを、すでに肌で感じ取っているようだった。オルコットは艦長席から、その一つ一つの動きを見守りながら、彼らへの信頼を新たにしていた。
航路図を最終確認しながら、オルコットはふと、セシルのことを思った。彼女は今、この状況をどう見ているのだろうか。連邦内部にいる彼女にも、この哨戒網の急激な拡大は、当然伝わっているはずだ。彼女がどんな思いで、この数日を過ごしているのか、想像するだけで胸が締め付けられた。だが、下手に連絡を取れば、彼女をさらなる危険に晒すことになる。今はただ、彼女の無事を信じて、任務を全うするしかなかった。
艦橋の照明が、出立に合わせてわずかに絞られた。オレンジ色の光が、計器盤の縁を静かになぞる。誰かが小さく息を吸い込む音が、やけにはっきりと耳に届いた。オルコットは艦長席の肘掛けに手を置き、これから始まる長い時間に備えて、自分の呼吸を整えた。
《薄明》は静かに機関を始動させ、灰域の暗闇へと針路を取った。窓の外に広がる暗闇は、いつもと変わらぬ表情をしていたが、その奥に潜む哨戒網の存在を知る今、オルコットにはその静けさが、以前よりもずっと重く感じられた。
(第27話へ続く)