シャトルが大気圏を突破すると、軌道上ではすでに《薄明》と連邦哨戒艦2隻との交戦が始まっていた。窓の外に見えるホロ図には、無数の光点が入り乱れ、それぞれが放つ実体弾の軌跡が、暗闇の中に細い線を描いていた。
「艦長、お戻りを確認!すぐに収容します!」
ダーナの声には、安堵と緊張が入り混じっていた。オルコットはシャトルから《薄明》へ移乗すると、そのまま艦長席についた。座席の感触が、これほど馴染み深く感じられたことはなかった。地上で見た光景の余韻が、まだ身体のどこかに残っていたが、今はその余韻に浸る時間はない。
「状況を」
「連邦哨戒艦2隻、加えて先ほど増援と思われる駆逐艦1隻が接近中。残り火隊の艦艇と合わせて交戦中です」
艦橋の空気には、これまで嗅いだことのある、焦げた電子部品の匂いがわずかに漂っていた。どこかの区画で、小規模な損傷が発生しているのだろう。オルコットはその匂いに、艦がすでに何度か被弾していることを察した。オルコットは鼻先をかすめるその匂いに、微かに顔をしかめた。艦が傷ついているという事実は、数値上の報告よりも先に、この匂いによって彼に伝わってくる。
艦橋のホロ図には、味方と敵の光点が入り乱れていた。距離の数値が刻一刻と変化し、いくつかの光点は明らかに損傷を示す点滅を繰り返している。オルコットは短い間に、状況をすべて頭に叩き込んだ。地上での戦闘から、休む間もなく次の戦場に立たされている。だが、これが艦長という仕事の常だった。
「損害は」
「残り火隊、2隻が中破。こちらは軽微な損傷のみです」
オルコットはホロ図に目を走らせた。連邦駆逐艦は、フリゲートである《薄明》より明らかに火力で勝る。まともに撃ち合えば分が悪い。艦橋の空気は張り詰めていたが、乗員たちの動きに乱れはなかった。ダーナがこの数十分、この場を守り続けてくれた成果だと、オルコットは無言のうちに理解した。
「ダーナ、よくやってくれた」
短くそれだけ伝えると、ダーナは一瞬だけ表情を緩め、すぐに引き締めた。
「まだ終わっていません。喜ぶのは、全員が無事に離脱してからにしましょう」
その通りだった。オルコットは頷き、意識を目の前の戦況に戻した。
「レフ、跳躍炉のチャージ状況は」
「あと4分でチャージ完了します」
「よし。全艦、駆逐艦の進路を塞ぐな。逆に、こちらから距離を離す機動を取れ。奴が追いつく前に、チャージを完了させる」
《薄明》は連邦駆逐艦との距離を保ちながら、巧みに機動した。短距離跳躍炉のチャージ中は無防備になるが、逆にチャージが完了すれば、この場から一瞬で離脱できる。艦体が姿勢を変えるたびに、慣性がオルコットの身体を座席に押し付けた。
チャージ完了までの数分間が、これまでのどの戦闘よりも長く感じられた。装甲を厚くまとった駆逐艦が、じりじりと距離を詰めてくる。逃げながら時間を稼ぐという行為は、正面から撃ち合うことよりも、精神的にはるかに消耗する。オルコットは自分の指先が、無意識に肘掛けを強く握りしめていることに気づいた。指の関節が白く色を失っているのに気づいたのは、しばらく経ってからだった。オルコットは意識してその手を緩めたが、緊張そのものは、少しも和らぐことがなかった。
「駆逐艦、砲撃してきます!」
「回避運動!」
艦体が大きく揺れる。至近弾の衝撃が船体を叩いた。震動と共に、艦内の照明が一瞬明滅する。艦のあちこちで、固定されていない備品が音を立てて落ちる音が聞こえた。
「外殻センサー、一部損傷!映像がやや不鮮明になっています!」
「構わない、続行しろ!」
「被害報告!」
「外殻に軽微な損傷。負傷者2名、いずれも軽傷です!」
「チャージ、あと90秒!」
マグダの残り火隊が、駆逐艦の側面へ回り込み、火力を集中させていた。決定打には至らないが、時間を稼ぐには十分だった。ホロ図の上で、残り火隊の光点が駆逐艦の周囲を旋回するように動き、絶え間なく砲撃を送り込んでいる様子が見えた。
デルフォスの地上戦から、休む間もなく艦隊戦へと移った彼らの疲労は、想像に難くない。それでも、無線から届く指示の声には、まだ十分な張りがあった。彼らの粘り強さに、オルコットは改めて助けられていた。
駆逐艦の主砲が、残り火隊の一隻に狙いを定めたのが、ホロ図の照準表示から読み取れた。
「――回避しろ、狙われている!」
オルコットが叫ぶより早く、対象の艦は横方向へ急な機動を取った。着弾は僅かに逸れ、艦の傍らを掠めるように過ぎていった。だが、その回避のために推進機関へかかった負荷は、決して軽いものではないはずだ。
「チャージ、あと45秒!」
「もう少しだ、耐えてくれ」
オルコットは声には出さず、モニター越しに戦う仲間たちへ、そう語りかけた。
「チャージ完了!」
「全艦、跳躍!」
《薄明》と残り火隊の艦艇が、次々と短距離跳躍で戦域を離脱していく。跳躍炉が起動する瞬間の独特の浮遊感が、一瞬だけ艦全体を包んだ。視界が白く滲み、次の瞬間には周囲の光景が一変している。何度経験しても、この感覚には慣れることがなかった。連邦艦隊は追撃の構えを見せたが、跳躍後の航跡を完全に追うことはできなかった。
跳躍後の空間は、これまでとは打って変わって静かだった。周囲に敵影はなく、艦のセンサーが拾うのは、遠く離れた恒星の光だけだった。オルコットは詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
灰域の外縁、安全圏まで離脱したところで、艦橋にようやく安堵の空気が流れた。誰かが小さく息を吐き、誰かが肩の力を抜くのが、オルコットの視界の端に映った。
「――被害状況、最終確認を」
「残り火隊、戦死者1名、負傷者6名。こちらは負傷者2名のみです」
戦死者――ダブレという名の兵士のことを、オルコットは忘れないと誓った。艦長室に戻ったら、必ず自分の手で、正式な記録に彼の名前と、最期の状況を書き記す。それが、今の自分にできる、数少ない責任の取り方だった。
負傷者6名という数字の裏には、それぞれに顔と名前がある。プラント跡地で見た、止血帯を巻いた隊員の姿が、オルコットの脳裏に蘇った。彼らが払った代償の総量を、数字だけで済ませてはならない。だが同時に、その全てを今この場で悼み尽くすことも、指揮官としてはできない相談だった。感情と職務の間で、オルコットはいつものように、危うい均衡を保とうとしていた。
艦橋の照明は、いつもと変わらぬ淡い白色のはずだった。それなのに、今日はその光が、やけに冷たく感じられた。オルコットは自分の頬に、まだ地上の熱気の余韻が残っているような錯覚を覚えながら、目の前のホロ図をもう一度見つめ直した。
《薄明》側の負傷者2名も、決して軽んじてよい数字ではなかった。艦隊戦でこの程度の被害で済んだことは、幸運だったと言うべきなのかもしれない。だが、幸運という言葉で片付けてしまえば、負傷した乗員たちの痛みまで、なかったことにしてしまうような気がして、オルコットはその言葉を頭の中から追い出した。
「アダム殿、鍵は」
「無事に確保されています」
アダムは箱を両腕でしっかりと抱えたまま、艦橋の隅に座り込んでいた。地上での戦闘の間、彼がどれほどの恐怖に耐えていたか、その顔色から容易に窺えた。それでも彼は、最後まで箱を手放さなかった。
「アダム殿、よくやってくれた。怖かっただろう」
「――正直に言えば、生きた心地がしませんでした。ですが、これが私に与えられた役目です。最後までやり遂げられて、安堵しています」
その言葉に、オルコットは小さく頷いた。武人でない者が、武人と同じ戦場に立ち、役目を果たした。その事実を、軽んじるつもりはなかった。
オルコットは箱を胸元に抱えたまま、しばらくその重さを確かめるように座っていた。この重さのために、一人の命が失われた。その事実を、軽々しく扱うつもりはなかった。
オルコットは艦長室に戻り、鎮魂会へ向けた暗号通信を打った。
『鍵、確保。これより引き渡しに向かう』
短い一文に、これまでの全てを込めることはできない。それでも、今はこれだけを伝えれば十分だった。窓の外、灰域の暗闇の中に、遠くデルフォスの光が小さく瞬いていた。あの光の下では、今もマグダの部隊が負傷者の手当てを続け、連邦軍が態勢を立て直しているのだろう。
作戦は成功した。だが、これはまだ始まりに過ぎないことを、オルコットは理解していた。鍵を手に入れたことで、事態は解決するのではなく、新しい局面へと移っただけだ。連邦がこのまま黙っているはずがない。そして、セシルの安否も、まだ何も分かっていなかった。
艦長室の椅子に深く腰を下ろし、オルコットは箱を机の上に置いた。革の表面に触れると、まだ地下要塞の冷たさが残っているような気がした。窓の外を流れる灰域の暗闇を見つめながら、彼はこれから待ち受けるであろう困難を、一つずつ頭の中で並べていった。連邦の報復、鎮魂会への引き渡し、そして何より、セシルの安全。どれも簡単には片付かない問題ばかりだった。それでも、今はまだ、鍵を手にしているという事実だけが、確かな足がかりだった。
机の上の箱を見つめながら、オルコットはふと、この重さがこれから先も、決して軽くなることはないのだろうと思った。むしろ、鍵を握り続ける限り、その重さは増す一方なのかもしれない。
長い一日だった。地下要塞への潜入から、地上での激戦、そして軌道上での離脱戦まで、休む間もなく駆け抜けてきた。身体の疲労は限界に近かったが、頭の芯だけは、妙に冷たく冴えていた。オルコットはしばらくの間、そのまま椅子に身を沈め、目を閉じた。瞼の裏に、ダブレの――正確には思い出せない、若い兵士の顔が、ぼんやりと浮かんでは消えた。
(第26話へ続く)