セシルが荷物をまとめる間、オルコットは窓の外の監視要員の動きを見張っていた。カーテンの隙間から見える街灯の下、二人の監視要員が、規則正しい足取りで巡回していた。制服の襟章まで見て取れるほど、距離は近い。
「――巡回、予定より早い」
腕時計に目を落とした潜入員が、緊張した声で言った。彼の指先が、わずかに震えているのが見て取れた。これまで幾度もの潜入任務をこなしてきたはずの男が見せる、隠しきれない緊張だった。
「規則的だった巡回間隔が、今日に限って乱れています。何かを警戒している動きです」
オルコットは唇を噛んだ。デルフォスの一件で失われた台帳の記録、あるいはセシル自身への尋問の中で漏れた何か。原因はいくつも考えられたが、今はその特定に時間を割く余裕はなかった。ただ、目の前の状況に対応することだけが、彼にできるすべてだった。
「気づかれたか」
オルコットは即座に窓際から身を引き、影の中に身を潜めた。心臓が、いつもより速く脈打つのを感じる。カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、彼の頬に細い線を描いていた。
セシルが背後から声をかけた。
「様子が変なんですか」
「まだわからない。急いだ方がいいのは、確かだ」
彼女は小さく頷き、鞄の紐を握る手に力を込めた。その仕草に、これから起こることへの覚悟が滲んでいるのを、オルコットは見て取った。
「わかりません。ただ、警戒レベルが上がっているのは確かです。先ほどまで十二分だった間隔が、今は八分ほどに縮まっています」
潜入員は端末の記録を素早く確認しながら答えた。監視要員の動きの変化は、単なる偶然かもしれない。だが、この段階でそれに賭けるわけにはいかなかった。
セシルが最低限の荷物を抱えて戻ってきた。旅行鞄というには小さすぎる、肩掛けの鞄一つだけだった。彼女の生活のほとんどすべてを、この部屋に置き去りにしていくことになる。オルコットは、その部屋を最後に一瞥した。壁に掛けられた小さな写真立て、まだ湯気の残るような茶器、几帳面に並べられた本棚。彼女がここで築いてきた人生の断片が、そのまま時を止めるように残されていた。もう二度と、彼女がここに戻ることはないのだろう。
「行きましょう。今なら、まだ」
彼女の声には、迷いを振り切ったような強さがあった。オルコットは頷き、扉に手をかけた。
一行は裏口から静かに抜け出し、地下ハッチへと向かった。夜の空気は冷たく、住居区の街灯の光が、路地に長い影を落としていた。足音を殺しながら進む一行の呼吸だけが、静寂の中ではっきりと聞こえた。どこかの部屋から漏れる夕食の匂いが、ふと鼻先をかすめた。この平穏な生活のすぐ隣で、自分たちが命懸けの逃走を試みているという事実が、不思議なほど現実離れして感じられた。だが、ハッチにたどり着く直前、通路の角から懐中灯の明かりが差し込んだ。
「――そこの三人、止まれ!」
監視要員の一人が、こちらに気づいた。懐中灯の光が、オルコットたちの姿を白く照らし出す。心臓が跳ね上がるのを感じながら、オルコットは即座に判断した。ここで立ち止まれば、すべてが終わる。
「セシル、先にハッチへ。潜入員、援護しろ」
短く、しかし迷いのない指示だった。セシルが息を呑む音が聞こえたが、彼女はすぐに走り出した。
監視要員が警報端末に手をかけようとした瞬間、潜入員が音の出ない制圧手段でこれを取り押さえた。手刀による一撃、そして素早い拘束。監視要員は声を上げる間もなく、地面に崩れ落ちた。倒れた男の顔は、まだ二十代半ばに見えた。オルコットは一瞬、その顔に視線を落とした。名前も知らない誰かの人生に、土足で踏み込んでいる感覚が、胸の奥をちくりと刺した。
だが、もう一人の監視要員はすでに、通信端末で応援を要請していた。低い声で座標を告げる音が、夜の静寂に響いた。
「――くそ、間に合わなかった」
潜入員が舌打ちした。もう一人の監視要員を制圧しようと踏み出したが、相手はすでに後退しながら、腰の得物に手をかけていた。
「急げ、ハッチへ!」
オルコットが叫んだ。今は交戦している場合ではない。目的は監視要員を無力化することではなく、セシルを安全に脱出させることだ。
ハッチを開け、地下トンネルへと駆け込む。金属製の蓋を閉める間際、背後で、居住区全体に警報が鳴り響き始めた。甲高いサイレンの音が、夜の街並みを切り裂くように広がっていく。窓という窓に、次々と明かりが灯り始めるのが見えた。何も知らずに眠っていた住民たちが、突然の警報に叩き起こされているのだろう。オルコットは、その光景を想像するだけで、胸の奥が締め付けられる思いがした。この作戦が、罪のない人々の平穏な夜を、こうして壊してしまっている。
「艦長、これは想定より早い発覚です。応援が来ます」
ハッチを閉め、梯子を駆け下りながら、潜入員が息を切らせて報告した。
「わかっている。予備の脱出経路へ切り替える」
トンネル内を走りながら、オルコットはセシルの手を取った。暗闇の中、懐中灯の光だけが頼りだった。足元の水たまりを踏むたび、冷たい飛沫が足首まで跳ねた。配管から漏れる蒸気が、視界を白く曇らせる瞬間もあった。息が上がり、喉の奥が焼けるように痛んだが、立ち止まる余裕はどこにもなかった。
「この先、天井が低くなります。頭を低く!」
潜入員の声に従い、三人は身を屈めながら走り続けた。頭上の配管に何度か肩をぶつけそうになりながらも、オルコットはセシルの手を離さなかった。
「大丈夫か」
「――大丈夫です。走れます」
セシルの声には、恐怖よりも、むしろ吹っ切れたような強さがあった。彼女はもう振り返らなかった。オルコットは、その横顔に浮かぶ表情を、走りながらも見逃さなかった。恐れを押し殺し、ただ前だけを見据える強さ。それは、彼が艦の乗組員たちに何度も見てきた、実戦を潜り抜ける者だけが持つ表情と、どこか似ていた。彼女は技術士官であり、戦闘の訓練など受けていないはずだった。それでも今、彼女はまぎれもなく、この逃走劇を戦い抜こうとしていた。
トンネルの奥で、複数の足音が反響し始めた。連邦軍の警備部隊が、すでに地下インフラの捜索を開始していた。金属を叩く音、無線機から漏れる指示の声、そして規則正しい行軍の足音。それらが幾重にも重なり合い、狭い通路の中で不気味な反響を作り出していた。
「別動隊の応援は」
オルコットが尋ねると、潜入員は走りながら端末を操作した。
「マグダの部隊が、工業区画の脱出口で待機しています。あと十分で到達可能です」
「十分か。持たせるしかないな」
十分という数字が、これほど長く感じられたことはなかった。オルコットは呼吸を整えながら、頭の中で残された選択肢を数え上げた。背後の足音が、次第に近づいてくる。地下トンネルという狭い密閉空間での、逃走劇が始まっていた。
湿った空気の中、遠くから聞こえる足音の数を、オルコットは無意識に数えていた。少なくとも四人分。装備の重みを感じさせる、規則正しい行軍のリズムだった。連邦軍の正規部隊が動員されているということだ。単なる居住区の警備担当ではない、本格的な追跡が始まっている。
「艦長、このままだと挟撃される可能性があります」
潜入員が振り返らずに言った。額に汗が浮かんでいるのが、懐中灯の光でわずかに見えた。
「予備経路の先に、迂回できる分岐はあるか」
「あります。ただし、距離が伸びます。あと五分は余計にかかるかと」
「それでも、行くしかない」
オルコットは即断した。挟撃される危険を冒すよりは、時間を犠牲にしてでも安全な経路を選ぶべきだった。
トンネルの分岐点で、潜入員が一瞬立ち止まり、地図を確認した。
「こっちです。予備経路は、この先の配管保守区画を抜けます」
「先導しろ」
三人は再び走り出した。狭い通路の中、コンクリートの壁に反響する足音が、追っ手との距離を測る唯一の手がかりだった。オルコットは、その距離が縮まっているのか、それとも保たれているのか、判別できないまま、ただ前だけを見据えて走り続けた。
分岐を折れた先、通路はさらに狭くなり、三人が並んで進むことすら難しくなった。壁の配管には、長年の腐食による赤錆が浮き、触れれば手が汚れそうな有様だった。それでも足を止めるわけにはいかなかった。
「艦長、こちらマグダ」
不意に、腰の通信機から声が届いた。
「聞こえている。状況は」
「工業区画の脱出口、準備は整ってる。あんたらが来るのを待つだけだ」
「あと数分でそちらに向かう」
短いやり取りだったが、その声を聞いただけで、オルコットの胸に、わずかな安堵が差し込んだ。まだ、脱出の糸口は残されている。
セシルが息を切らせながら、それでも歩みを緩めなかった。彼女の額には汗が浮かび、髪が乱れて頬に張り付いていた。それでも彼女は、一度も弱音を吐かなかった。オルコットは、その横顔を見るたびに、彼女が背負ってきたものの重さを、あらためて思い知らされる気がした。技術士官として研究に打ち込んできたはずの彼女が、今こうして、命懸けの逃走劇の中を走り抜けている。その落差の大きさを思うと、胸が締め付けられた。
「もう少しです、艦長」
潜入員の声が、暗闇の先から響いた。前方に、わずかな光の筋が見え始めていた。地上へと続く出口の気配だった。オルコットは残された力を振り絞り、その光に向かって走り続けた。
(第37話へ続く)