オルコット自身が、接触班に加わることを決めた。ラスクは強く反対したが、オルコットの意志は固かった。

「艦長が直接、敵地に足を踏み入れる必要はありません。潜入員に任せれば十分です」

ラスクは通信越しに、珍しく語気を強めていた。

「艦長の身に何かあれば、《薄明》の指揮系統そのものが揺らぎます。それに、もし拘束されでもすれば、鍵の一件との関連まで疑われかねない」

「わかっている。それでも、行く」

オルコットは、通信端末の向こうのラスクの沈黙を、はっきりと感じ取ることができた。反論の材料はまだあるはずだった。それでも彼は、それ以上の説得を諦めたようだった。

「艦長がそこまで言うのなら、これ以上は止めません。ですが、少将には報告しません。これは、あなたと私の間だけの話にしておきます」

「恩に着る」

「恩、というほどのことでもありません。艦長が無事に戻ってこられなければ、私が困るだけの話です」

ラスクらしい、感情を隠した言い回しだった。オルコットはその言葉の裏にある気遣いを、素直に受け取ることにした。

「――彼女に会うのは、俺でなければならない。信頼できるかどうかの判断は、他人には任せられない」

オルコットは静かに、しかし譲らない口調で続けた。潜入員がどれほど有能でも、セシルが本当に脱出を望んでいるかどうかを見極めるのは、彼女と直接言葉を交わした人間にしかできない仕事だと、彼は考えていた。それに、正直に言えば、彼自身がどうしても、自分の目で彼女の無事を確かめたかった。

「――わかりました。ですが、無茶だけはなさらないでください」

「約束はできない。だが、努力はする」

ラスクは短く息を吐く音を残し、通信を切った。

連邦領内への潜入は、マグダの手配した民間輸送船に紛れる形で行われた。定期便を装った中型の貨物船で、船倉には見せかけの積荷として、農業機材の部品が満載されている。オルコットは作業服に着替え、荷役作業員の一人として乗り込んだ。

「艦長がこんな格好してるの、傑作だね」

マグダが小さく笑いながら言った。オルコットは無言で、着慣れない作業服の袖を整えた。軍服とは違う、生地の粗い布の感触が、妙に現実感を伴っていた。

「似合ってないとでも言いたいのか」

「いや、逆さ。板についてて、余計に笑える。艦長より、荷役の親方の方が向いてるんじゃないかい」

軽口を叩き合いながらも、マグダの目は油断なく周囲を確認していた。輸送船の乗組員に扮した残り火隊の面々も、それぞれの持ち場で自然な振る舞いを装っている。誰一人、緊張を表には出していなかった。それこそが、この稼業で生き残ってきた者たちの流儀なのだと、オルコットはあらためて感じ入った。

輸送船は連邦領内の主要な貨物港へと着岸し、そこから技術者居住区に隣接する工業区画へと、さらに小型の輸送車で移動した。街並みは、想像していたよりもずっと平穏だった。行き交う人々、灯りのともる商店、遊ぶ子供たちの声。戦争の気配など、どこにも感じられない。オルコットはその日常の光景を目にするたび、自分たちがこれから何をしようとしているのかを、あらためて突きつけられる気がした。

貨物港での荷降ろし作業を終えた後、一行はさりげなく隊列を離れ、工業区画の外れへと移動した。夜の帳が下り始めた頃、廃棄されたメンテナンス口の前に立つ。錆びついた鉄扉には、使用禁止を示す古い警告表示が貼られたままだった。

工業区画の廃棄されたメンテナンス口から、地下トンネルへと降りる。

「艦長、静かに。この先、監視カメラの死角を縫って進みます」

案内役の潜入員が先導する。狭いトンネル内は、配管の蒸気と機械油の匂いに満ちていた。足元は湿り気を帯びたコンクリートで、一歩進むごとに、微かな水音が反響した。頭上を這う配管からは、時折、規則的な滴りの音が落ちてくる。オルコットは腰を屈め、天井の低い区間を慎重に進みながら、案内役の背中から目を離さなかった。

「――ここが、居住区の地下です」

四十分ほど歩いた頃、通路の様相が変わった。天井が高くなり、壁面には居住区の給排水設備を示す古い標識が残っている。潜入員は懐中灯の光を絞り、周囲を確認しながら進んだ。

途中、二度ほど本来の通路が崩落した箇所に行き当たり、迂回を強いられた。崩れたコンクリートの隙間から、頭上の生活音――誰かの足音、水道管を流れる水音、遠い話し声――が、うっすらと伝わってくる瞬間があった。オルコットはそのたびに、自分たちの真上に、何も知らない人々の日常が続いていることを、あらためて意識した。

「もうすぐです。あと少し」

案内役の潜入員が、振り返らずに短く告げた。彼の声にも、わずかな緊張が滲んでいた。

セシルの住居に繋がる保守用ハッチの前で、一行は立ち止まった。

「時間は限られています。監視要員の巡回間隔は、およそ12分」

「わかった」

オルコットは腕時計に目を落とした。秒針が刻む音が、いつもより大きく聞こえる。緊張が、指先の震えとなって表れていた。デルフォスの地下要塞に踏み込んだときとは、また違う種類の緊張だった。あのときは敵の火力を警戒すればよかった。だが今は、扉の向こうにいる相手の心を、ただ静かに待つしかない。武器も戦術も通用しない緊張が、彼の胸を締め付けていた。

ハッチを慎重に開け、オルコットは彼女の住居の裏口へと忍び込んだ。窓の隙間から漏れる明かりを頼りに、静かに扉を叩く。三回、間を空けて二回。事前に取り決めておいた合図だった。

しばらくの沈黙の後、扉が細く開いた。セシルが、そこに立っていた。以前より頬がこけ、目の下に濃い隈があった。だがその目には、まだ強い光が宿っていた。

「――グレイ」

彼女は驚きと、それ以上の何かを込めて、その名を呼んだ。声は掠れ、震えていた。オルコットは、その一瞬の彼女の表情の変化を、決して忘れないだろうと思った。恐怖と、安堵と、信じられないという困惑が、同時に浮かんでいた。

部屋の中は薄暗く、必要最低限の明かりしか灯されていなかった。おそらく、監視の目を意識してのことだろう。壁際には、研究資料と思われる書類の束が、乱雑に積まれたままになっていた。彼女がここで、どれほど落ち着かない日々を過ごしてきたかが、その部屋の様子だけで伝わってきた。

「時間がない。あなたに聞きたいことがある」

「どうやって、ここまで……」セシルは声を落とし、部屋の外を気にするように視線を走らせた。「監視は、すぐそこに」

「わかっている。だから、静かに話そう」

「詳しい話は後だ。セシル、あなたはこのまま、連邦にとどまり続けたいですか。それとも――」

セシルは長い沈黙の後、静かに首を振った。狭い部屋の中、彼女の背後には、荷造りされないままの本や資料が、そのまま放置されているのが見えた。日常が中断されたまま、時間だけが止まっているような部屋だった。

「もう、無理です。特務班は、私が哨戒配置情報を遅延させた証拠を、ほぼ掴んでいます。時間の問題です。起訴されれば、極刑もあり得る」

彼女の声は、思いのほか落ち着いていた。だがその落ち着きは、諦めに近いものだと、オルコットにはわかった。

「――怖くないのか」

「怖いです。でも、ここに残っても、いずれ同じ結末が待っている。それなら、まだ自分で選べるうちに、選びたい」

セシルはそう言うと、力なく笑った。頬がこけたその笑顔は、以前の彼女が浮かべていたものとは、明らかに違っていた。オルコットは、彼女がこの数週間、どれほどの緊張と孤独の中で過ごしてきたかを、あらためて思い知らされた。

「――一緒に来てくれますか」

セシルは、オルコットの目をまっすぐに見つめた。長い沈黙が、部屋の中に落ちた。壁の向こうから、かすかに監視要員の足音が聞こえた気がして、オルコットは思わず耳を澄ませた。だが、それは杞憂だったらしく、足音は遠ざかっていった。

「祖国を、裏切ることになります」

「あなたはもう、十分に裏切っている。それに――」

オルコットは静かに言った。

「本当に裏切ったのは、あなたじゃない。あの日、集落を焼いた実験を隠蔽した、あなたの上官たちだ」

その言葉に、セシルの瞳が揺れた。彼女は一瞬、目を伏せ、それから再びオルコットを見上げた。長い睫毛の下で、涙が薄く滲んでいるのが見えた。だが彼女はそれを拭うこともせず、まっすぐにオルコットを見つめ続けた。

「――行きます」

短い言葉だったが、そこには、これまでの葛藤のすべてが凝縮されているように、オルコットには感じられた。彼は静かに頷き、彼女の手を取った。冷たく、震える手だった。その震えが、恐怖からくるものなのか、それとも安堵からくるものなのか、オルコット自身にも判別がつかなかった。ただ、その手を離すつもりはなかった。

オルコットは扉の外に一瞬耳を澄ませた。廊下の先から、規則正しい足音がまだ遠くに聞こえている。監視要員の巡回は、まだこちらに気づいていないようだった。

「準備を。荷物は最低限でいい。持ち出せば怪しまれるものは、すべて置いていくんだ」

「――わかりました」

セシルは部屋の奥へ戻り、小さな鞄に、着替えと、数枚の書類だけを詰め込んだ。研究資料の大半は、そのまま部屋に残していく。彼女がその選択に、どれほどの未練を抱えているか、オルコットには推し量ることしかできなかった。それでも、彼女は迷う素振りを見せず、手早く支度を終えた。

「行けます」

彼女の声には、もう先ほどまでの震えはなかった。

(第36話へ続く)