マグダの部隊が、包囲網の一角に陽動を仕掛けた。廃棄された工業設備の間で、小規模ながら激しい銃撃戦が始まる。曳光弾の軌跡が暗闇を切り裂き、金属の壁に跳ね返る銃声が、幾重にも反響した。硝煙の匂いが、風に乗って配電設備の奥まで流れ込んでくる。

マグダの部隊がこの陽動のために何名を投入したのか、オルコットは正確には知らなかった。だが、彼女がこの作戦のために動員できる人数は限られている。今、彼らが晒しているであろう危険の大きさを思うと、胸の奥が締め付けられた。この借りは、後で必ず返さねばならない。

「艦長、今のうちに!」

通信機越しにマグダの声が届いた瞬間、オルコットは配電設備の陰から飛び出した。装甲車両2両のうち1両が陽動に釣られて動いた隙を突き、オルコットたちは反対側の脱出口へと走った。

セシルの手を強く握り、瓦礫と配管の合間を縫うように進む。足元は不安定で、錆びた金属片が靴底に当たるたび、鈍い音が響いた。彼女の呼吸は荒く、時折足がもつれかけたが、それでも彼女は転ばずに走り続けた。

「もう少しだ。持ち堪えてくれ」

「大丈夫、です」

セシルは息を切らしながらも、しっかりとした声で答えた。その気丈さに、オルコットは内心で驚きを覚えていた。彼女は戦闘の訓練を受けた兵士ではない。それでも、極限の状況の中で、彼女は決して弱さを見せなかった。

「連邦軍、気づきました!歩兵が追ってきます!」

背後から潜入員の声が飛んだ。振り返る余裕はなかった。オルコットはただ前を見据え、走り続けた。

「振り切れるか」

「厳しいですが、やるしかありません」

背後から実体弾が飛来し、配電設備の残骸を削った。金属片が四方に飛び散り、頬をかすめる音がした。オルコットはセシルを庇いながら、遮蔽物を伝って進んだ。

「セシル、伏せて!」

至近弾が頭上を掠める。空気が裂けるような音とともに、頭上の配管が火花を散らした。彼女は言われた通り身を屈め、恐怖に震えながらも足を止めなかった。膝が瓦礫に擦れ、鈍い痛みが走ったはずだったが、彼女はそれを気にする素振りすら見せなかった。

「――マグダ、そちらの状況は!」

オルコットが叫んだ。

「押されてる!長くは持たないよ!」

背後で爆発音が響き、通信機のスピーカーが一瞬歪んだ音を発した。マグダの部隊が、廃棄された燃料タンクか何かに引火させたのかもしれない。オルコットは咄嗟に、そちらへ視線を向けたい衝動を抑え込んだ。今、彼にできることは、目の前の状況に集中することだけだった。

マグダの声には、これまで聞いたことのない切迫感があった。彼女の部隊もまた、数的不利の中で懸命に持ち堪えているのだろう。オルコットは、彼女たちが払っている代償の重さを、痛感せずにはいられなかった。

通信の向こうから、断続的な銃声と、誰かの短い呻き声が漏れ聞こえた。負傷者が出ているのかもしれない。だが、今その詳細を確認している時間はなかった。オルコットは奥歯を噛みしめ、目の前の状況に意識を集中させた。

オルコットは決断した。この状況を打開するには、誰かが確実に足を止め、時間を稼ぐしかない。

「潜入員、セシルを連れて先に脱出口へ。俺が殿を務める」

「艦長、それは」

潜入員が振り返り、明らかな困惑を見せた。艦長自らが殿を務めるなど、通常の作戦であればあり得ない判断だった。

「命令だ。行け」

オルコットの声には、一切の迷いがなかった。潜入員は一瞬躊躇したが、やがて短く頷いた。

「――承知しました。ご武運を」

潜入員はセシルの手を引き、脱出口へと走った。セシルが振り返り、何か言おうと口を開きかけたが、オルコットは片手でそれを制した。

「行け。すぐに追う」

その言葉が、果たしてどれだけの確信を持って発せられたものか、オルコット自身にもわからなかった。だが、少なくとも今、迷っている暇はなかった。

セシルの目に、涙が浮かびかけていた。彼女は何かを言いたそうにしていたが、結局、声にならなかった。潜入員に手を引かれるまま、彼女は瓦礫の陰へと駆け込んでいった。オルコットはその後ろ姿を一瞬だけ見送り、それから追っ手の方へと向き直った。

その一言だけを残し、オルコットは残された非殺傷装備を手に、追ってくる連邦兵の足を止めにかかった。

狭い工業区画の中での近接戦闘は、数の不利を地形で補える。廃棄された機械の隙間、崩れかけた足場、積み重なった資材の山。それらすべてが、盾にも武器にもなり得た。オルコットは廃棄された設備の陰から陰へと移動しながら、追っ手の連携を乱し続けた。

彼は艦長として、これまでも幾度となく指揮を執ってきたが、自ら最前線で戦うことは決して多くはなかった。それでも、こうした状況で体が自然に動くのは、叩き上げの現場指揮官として積み重ねてきた経験があったからだった。呼吸を整え、周囲の音に神経を尖らせる。恐怖は消えなかったが、それに支配されることもなかった。

「――くそ、思ったより粘るな」

連邦兵の一人が苛立った声を上げるのが聞こえた。オルコットは非殺傷弾で、確実に一人ずつ無力化していった。誰も殺さない。それが、この作戦の最後の一線だった。狙いは常に肩、あるいは脚。致命傷を避けながらも、確実に相手の戦闘継続能力を奪う。それは、単なる射撃技術以上に、精神的な鍛錬を要する作業だった。

一人の兵士が至近距離まで迫り、白兵戦の間合いに入った。オルコットは相手の突進をかわしながら、肘で顎を打ち抜いた。相手が体勢を崩した隙に、非殺傷弾を放ち、完全に行動を封じる。息が上がり、腕の筋肉が悲鳴を上げていたが、止まるわけにはいかなかった。

倒れた兵士の顔を、オルコットは一瞬だけ見下ろした。まだ若い、二十代前半と思われる顔だった。制服の階級章からして、下級の兵卒だろう。彼にも、帰りを待つ家族がいるかもしれない。そんな想像が一瞬よぎったが、今はそれを振り払うしかなかった。

さらに二人目の兵士が横合いから迫ってきた。オルコットは廃棄されたコンテナの陰に転がり込み、相手の射線を切った。金属音を立てて実体弾がコンテナの側面にめり込む。振動が背中越しに伝わってきた。反撃の機会を窺いながら、彼は呼吸を整えた。

「――このまま、押し切られるわけにはいかない」

自分に言い聞かせるように呟き、オルコットはコンテナの陰から飛び出し、非殺傷弾を放った。狙いは正確に、相手の脚を捉えた。兵士が崩れ落ちる音が響く。これで、確認できただけで三人を無力化したことになる。だが、まだ追っ手は残っていた。

「艦長!脱出口、確保しました!」

潜入員からの通信が届いた瞬間、オルコットは踵を返し、脱出口へと全力で走った。背後から追ってくる足音を振り切るように、瓦礫を跳び越え、狭い隙間をすり抜けた。

輸送艇が、すでにエンジンを噴かして待機していた。ハッチの前で、セシルが不安げな表情でこちらを見つめている。オルコットが飛び乗ると同時に、艇は急上昇を始めた。機体が軋み、加速度が全身にのしかかる。

「艦長!」

セシルが叫び、駆け寄ろうとした。だが加速のGに阻まれ、彼女はハッチ脇の手すりにしがみつくのが精一杯だった。オルコットは倒れ込むようにシートに体を沈め、荒い息を整えた。全身が汗で濡れ、耳の奥では、まだ銃声の残響が鳴っているような気がした。

「――全員、無事か」

息を切らせながら、オルコットは尋ねた。

「セシルさんも、潜入員も、無事です」

パイロットを務める残り火隊の一人が、簡潔に答えた。オルコットはようやく、詰めていた息を吐き出した。

窓の外、遠ざかっていく居住区の明かりを見つめながら、オルコットは大きく息を吐いた。眼下には、依然として銃火の閃光が散発的に瞬いている。マグダの部隊が、まだそこで戦っているはずだった。

「マグダの部隊は、無事に離脱できるか」

「通信によれば、別方向から離脱を試みているとのことです」

「そうか……」

オルコットは目を閉じ、マグダの声を思い出した。押されてる、長くは持たない――あの声の緊迫感が、今も耳に残っている。無事に離脱できたという確証がない限り、彼は安堵することができなかった。後で必ず、彼女たちの犠牲の有無を確認しなければならない。もし誰かが命を落としていたなら、その名前と最期を、きちんと記録に残す必要がある。

安堵は長くは続かない。この一件は、間違いなく連邦の目に、同盟の関与を強く印象づけることになるだろう。オルコットは座席に深く沈み込み、セシルの隣に腰を下ろした。彼女は震える手で、自分の膝を強く握りしめていた。

「――怪我は」

「ありません。あなたは」

「大丈夫だ」

オルコットは短く答えたが、腕には至近弾の熱でできた擦過傷が、じわりと痛みを訴えていた。それでも、今はそれを気にする余裕はなかった。

輸送艇の窓の外、灰色に染まった大気圏の縁が、少しずつ近づいてくるのが見えた。これを突破すれば、ようやく宇宙空間だ。だがそこにもまた、新たな困難が待ち受けているであろうことを、オルコットは冷静に予測していた。連邦軍が、これほどの規模で地上部隊を動員した以上、軌道上の哨戒網も、すでに厳戒態勢に入っているはずだった。

セシルが隣の座席で、震える手を膝の上で握りしめていた。彼女はまだ、自分が本当に祖国を離れたのだという実感を、完全には持てていないようだった。オルコットはその肩にそっと触れ、何も言わずにただ寄り添った。今は言葉よりも、その方が伝わるものがあると思った。

(第39話へ続く)