輸送艇が大気圏を突破すると、すでに連邦軍の哨戒艦2隻が緊急発進していた。窓の外、薄い大気の層を抜けた先に広がる漆黒の宇宙に、二つの光点が急速に近づいてくるのが見えた。
「艦長、輸送艇では戦闘に耐えられません!」
パイロットが叫んだ。彼女の声には、隠しきれない緊張があった。輸送艇の装甲は、民間仕様の最低限のものしかない。まともに砲撃を受ければ、ひとたまりもないだろう。
「《薄明》との合流地点は」
「あと8分の距離です」
「8分か」
オルコットはシートベルトを締め直しながら、頭の中で状況を整理した。連邦哨戒艦の巡航速度と、輸送艇の限界速度。その差を計算すれば、合流までに追いつかれる可能性は十分にあった。
隣に座るセシルの顔は、青ざめていた。彼女は窓の外に迫る二つの光点を、じっと見つめている。オルコットは彼女の肩に軽く手を置いた。
「大丈夫だ。《薄明》が来る」
「――信じています」
セシルは短く答えたが、その声にはまだ緊張が滲んでいた。無理もない。地上での逃走劇に続き、今度は宇宙空間での追跡が始まろうとしている。彼女にとって、これほど長く恐怖と隣り合わせの時間を過ごすのは、初めてのことだったに違いない。
輸送艇は最大速度で、待機していた《薄明》へと向かった。エンジンの唸りが最大出力に達し、機体全体が細かく振動する。連邦哨戒艦が追跡を開始する。レーダー上に表示される二つの光点が、じりじりと距離を詰めてくるのが、モニター越しにもはっきりとわかった。
「――追いつかれます!」
パイロットの声が上ずった。
「《薄明》、応答しろ!」
オルコットの呼びかけに、ダーナの声が即座に返ってきた。通信の向こうから、艦橋の緊迫した空気が伝わってくるようだった。
『艦長、視認しました!援護に入ります!』
その声を聞いた瞬間、オルコットは胸の奥に、確かな安堵が広がるのを感じた。まだ、すべてが終わったわけではない。
ダーナの後ろから、艦橋の慌ただしい報告の声が漏れ聞こえてきた。砲雷長が主砲の照準を合わせる声、機関長が跳躍炉の起動準備を告げる声。乗組員たちが一丸となって、この一戦に備えている様子が、通信越しにも伝わってきた。オルコットは、自分がこの艦を離れていた間も、彼らが変わらず職務を全うしていたことに、あらためて感謝した。
《薄明》が輸送艇と連邦哨戒艦の間に割って入り、牽制射撃を浴びせた。艦首の主砲が閃光を放ち、連邦哨戒艦の進路上に着弾の火球が広がる。連邦艦が一瞬怯み、輸送艇との距離が開く。
窓越しに見えたその光景に、輸送艇内の誰もが息を呑んだ。灰色の艦体が、暗闇の中でその存在感を放っている。オルコットにとって、これほどまでに《薄明》の姿を頼もしく感じたことはなかった。
「今のうちに接舷!」
パイロットが機体を大きく旋回させ、《薄明》のドックへと接近した。オルコットはセシルの手を握り、衝撃に備えて姿勢を低くした。
輸送艇が《薄明》のドックへ滑り込む。金属同士が擦れる甲高い音とともに、艇体が固定される衝撃が全身を貫いた。セシルと潜入員、そしてオルコットが、次々と艦内へ駆け込んだ。
「全員、収容完了!」
ダーナの声が艦内放送で響いた。
「よし、離脱する!」
オルコットは艦長席へと駆け上がった。腕の擦過傷が椅子の肘掛けに触れ、鈍い痛みが走ったが、それを気にしている暇はなかった。
《薄明》は連邦哨戒艦2隻を相手に、短距離跳躍炉のチャージを開始しながら後退戦を展開した。跳躍炉の起動音が、艦全体を低く震わせる。チャージには最低でも数分を要する。その間、艦は敵の攻撃に身を晒し続けなければならなかった。
短距離跳躍炉は、チャージ中は完全に無防備になる。これは、この艦の設計上の宿命だった。奇襲や強行接舷には絶大な威力を発揮するその機構も、逃走の場面では、ただ耐え忍ぶ時間を強いる枷でしかない。オルコットはその矛盾を、これまでの任務で何度も噛み締めてきた。
「連邦艦、追撃してきます!砲撃、開始!」
砲雷長の声が緊迫していた。モニターに映る連邦哨戒艦から、閃光が幾筋も放たれる。
「回避運動!チャージを死守しろ!」
艦体が至近弾の衝撃で揺れる。装甲越しに伝わる振動が、オルコットの座席までを揺さぶった。オルコットは艦長席に着き、指揮を執った。艦橋の照明が一瞬明滅し、非常灯の赤い光が差し込んだ。誰かが小さく舌打ちする声が聞こえたが、混乱は一切なかった。乗組員たちは、それぞれの持ち場で冷静に職務を遂行していた。
「損傷状況は」
「後部装甲に軽微な損傷。深刻な被害はありません」
「このまま回避を続けろ。チャージ完了まで、あと何分だ」
「あと三分二十秒です」
三分二十秒。オルコットはその数字を頭に刻み込んだ。デルフォスでの強行策動の際にも、幾度となく経験してきた、この長く感じられる待ち時間。だが今回は、艦だけでなく、セシルの命もかかっている。
「艦長、連邦艦のうち一隻が、通信を発信しています。おそらく増援の要請かと」
通信士官の報告に、オルコットは奥歯を噛みしめた。もし増援が到着すれば、状況はさらに悪化する。三分二十秒という時間が、これまでにないほど長く感じられた。
「増援が到着するまでの猶予は」
「正確にはわかりませんが、近隣の哨戒圏を考慮すると、十五分前後かと」
「十五分か。それまでには、跳躍を完了させる」
オルコットは自らに言い聞かせるように呟いた。
「マグダの部隊は」
「別方向から離脱中です。連邦艦の一部がそちらに気を取られています」
「好都合だ。このまま突っ切る」
《薄明》は回避運動を続けながら、連邦哨戒艦の砲撃をかいくぐった。艦体が幾度も傾き、慣性が乗組員たちの体を左右に振り回す。オルコットは肘掛けを強く握りしめ、モニターから目を離さなかった。
「艦長、連邦艦の一隻が、進路を塞ぐ位置に回り込んでいます」
「――このまま押し切れ。跳躍炉のチャージを最優先だ」
砲雷長が牽制射撃を返し、連邦艦の動きを一瞬鈍らせる。その隙に、《薄明》はわずかに進路を変え、包囲の隙間を縫うように進んだ。
「命中!敵艦一隻、推進部に損傷を与えました」
砲雷長の声に、わずかな昂揚が滲んだ。だがオルコットは、すぐにその感情を戒めた。
「油断するな。まだ戦闘は終わっていない」
「――了解」
砲雷長は即座に表情を引き締め、次の照準へと意識を切り替えた。オルコットは、この一瞬の緩みが、致命的な隙になり得ることを、これまでの経験で嫌というほど知っていた。
「チャージ完了まで、あと一分!」
その一分が、これまでの人生で最も長い一分のように感じられた。連邦哨戒艦の砲撃が、艦の至近距離で炸裂し続ける。装甲の軋む音、警報の断続的な鳴動、乗組員たちの緊迫した声。それらすべてが、オルコットの神経を張り詰めさせていた。
「後部装甲、損傷率二十パーセントを超えました」
「まだ耐えられるか」
「ぎりぎりです。これ以上の被弾は避けたいところです」
機関長の声には、抑えた焦りが滲んでいた。オルコットは即座に判断を下した。
「回避優先。多少の進路変更は構わない。とにかく、チャージを守り抜け」
「了解」
艦がさらに大きく傾き、乗組員たちの体が慣性でシートに押し付けられた。窓の外では、連邦哨戒艦の放つ光条が、幾度も《薄明》の周囲をかすめていった。
「チャージ完了!跳躍します!」
「――跳べ!」
短い号令とともに、《薄明》は跳躍によって戦域を離脱した。視界が一瞬歪み、周囲の星々が細い光の筋となって流れる。跳躍特有の重力の歪みが、一瞬だけ全身を締め付け、そして解放された。連邦領空を脱し、灰域の暗闇へと帰還する。
モニターに映っていた連邦哨戒艦の姿が、跳躍と同時に消え去った。オルコットは、詰めていた息をゆっくりと吐き出した。艦全体を包んでいた緊張の糸が、ようやくわずかに緩んだ。
艦橋に安堵の空気が流れた。誰もが一様に、詰めていた息を吐き出した。ダーナが小さく笑い、砲雷長が肩の力を抜くのが見えた。この短い戦闘の中で、彼らがどれほどの緊張を強いられていたか、その表情がすべてを物語っていた。
オルコットは席を立ち、セシルの元へ向かった。彼女は艦内医務室で、簡単な処置を受けていた。膝の擦り傷に、白い包帯が巻かれている。
「――怪我は」
「大したことはありません。それより……」
セシルは、オルコットを見上げた。その目には、安堵と、それでも消えない不安の色が浮かんでいた。
「本当に、私を連れ出してよかったんですか。これで、あなたの祖国も、私を通じて連邦との対立を深めることになる」
オルコットは静かに答えた。
「あなたを見捨てる選択肢は、最初からなかった」
その言葉に、セシルの目に涙が滲んだ。彼女は何かを言おうとしたが、言葉にならず、ただ小さく頷いた。艦内医務室の照明の下、彼女の頬を伝う涙が、静かに光っていた。
オルコットは彼女の隣に腰を下ろし、しばらくの間、何も言わずにただそこにいた。窓の外には、灰域の暗闇が広がっている。連邦との境界線を越えたことで、彼女はもう、後戻りのできない道を選んだことになる。その重みを、二人とも、痛いほどに理解していた。
医務士官が静かに部屋を出ていき、二人だけが残された。セシルは深く息を吐き、ようやく肩の力を抜いたようだった。オルコットは、これから彼女が歩むことになる道のりの厳しさを思いながらも、今この瞬間だけは、彼女が無事でいることに、素直に安堵していた。
(第40話へ続く)