ハイド・ステーション、作戦本部の一室。窓の外には、灰域の淡い光を背景に、係留中の艦艇の輪郭が並んでいた。空調の低い唸りだけが響く部屋で、オルコットは届いたばかりの連邦側公電の写しを手に取り、何度も同じ一文を読み返していた。文字自体は簡潔な事務文書に過ぎなかったが、そこに込められた意味の重さは、これまで読んできたどの報告書よりも大きかった。

マルコ・ヴィスは、ハルシオンでの敗北にもかかわらず、連邦参謀本部特務局の正式な局長へと昇進した。

「――負けた男が、なぜ昇進する」

オルコットは、報告書を読みながら呟いた。声には、皮肉というよりも、純粋な疑問が滲んでいた。戦場の理屈で言えば、艦を三隻失い、地上部隊を後退させた指揮官は、更迭されるのが常道だ。彼自身、部下を死なせた指揮官がどう裁かれるべきかを、何度も考えてきた。功績と失敗を天秤にかけ、それでも生きて戻った者に次の任務を与えるのが、同盟の流儀だった。だが連邦という国家は、どうやら別の物差しを持っているらしい。敗北そのものよりも、敗北をどう物語として処理するかの方が、彼らにとっては重要なのだ。

「彼は、『敗北の責任』ではなく、『敗北に至った情報漏洩と国内の裏切り者への対処』を新たな任務として与えられたようです」

セシルが、苦い顔で説明した。彼女の手元には、連邦の人事発令を要約した資料があった。文面は簡潔だったが、行間には、責任の所在を巧妙にすり替える意図が透けて見えた。彼女は資料の紙面を指先でなぞりながら、言葉を選ぶように続けた。

「連邦にとって、ハルシオンでの敗北そのものは、すでに過去の出来事として処理されつつあります。今、彼らが恐れているのは、敗北の再発ではなく、内部からの崩壊です。技術情報が漏れ続ける限り、次の作戦もまた同じように崩れるかもしれない――その恐怖が、ヴィスに権限を集中させる口実になっているのだと思います」

「つまり、私のような亡命者や、鍵の窃取に関わった者たちを追及する権限が、正式に彼へ集中したということです」

その声には、自嘲と警戒が同時に滲んでいた。オルコットは、彼女の横顔を見つめた。三年前、技術交流会議で出会った頃の彼女は、もっと硬質な、感情を表に出さない人物だった。今は、疲労と不安がそのまま表情に出るようになっている。それが、彼女が本当の意味で自分の陣営を失ったことの証のように思えた。祖国から見捨てられ、同盟でもいまだに完全な信頼を得ているとは言い難い立場。彼女はどちらの国旗の下にも、心から安らげる場所を持っていなかった。

ラスクが、緊張した面持ちで続けた。

「――ヴィスは、局長就任早々、大規模な粛清に着手しています。連邦国内の技術者、軍関係者の中から、少しでも『同盟への内通の疑いがある者』を洗い出す作戦です。すでに拘束された者の数は、確認できているだけで二十名を超えています」

「セシルの旧同僚たちは」

「危険な立場に置かれている者が、複数いるはずです」

セシルは、目を伏せた。窓の外の光が、彼女の頬に薄い影を落としていた。

「――私のせいで」

「あなたのせいじゃない」

オルコットは、即座に否定した。言葉にしてから、それが単なる慰めではなく、自分が本当にそう信じていることに気づいた。

「ヴィスは、あなたがいなくても、いずれ同じことをしただろう。彼にとって、粛清は目的そのものだ。誰かを断罪することで、自分の権力を固めているに過ぎない」

粛清というものの構造を、オルコットはこれまでの実戦の中で嫌というほど見てきた。敗北の責任を誰かに押し付けることで、組織は自分自身の欠陥を直視せずに済む。名指しされる者が実際に何をしたかは、二の次になる。重要なのは、責任を負わせる相手が存在すること、それだけだ。ヴィスは、その仕組みを誰よりも理解し、利用する側に回ったのだろう。むしろ、鍵の奪取事件は、彼にとって好都合な口実に過ぎなかったのかもしれない。

セシルは、しばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「――あなたの言う通りかもしれません。それでも、心が軽くなるわけではありませんが」

「軽くならなくていい。ただ、あなたが背負う必要のない重さまで、背負わないでくれ」

その言葉に、セシルはわずかに目を潤ませたが、何も言わず、ただ小さく頷いた。会議室には、しばらくの間、誰も口を開かない時間が流れた。ラスクが資料を束ね直す紙の音だけが、静かに響いていた。

その夜、当直明けのオルコットが艦橋の隅で報告書を整理していると、ラスクから緊急の連絡が入った。通信端末の光が、暗い艦橋に不釣り合いなほど鋭く点滅していた。時刻は深夜、乗員の大半はすでに休息に入っており、艦内は普段よりも静かだった。その静けさが、かえって不吉な予兆のように感じられた。

「――ヴィスが、独自にオルコット艦長とマーロウ技術顧問の暗殺、あるいは拉致を計画しているという情報を掴みました」

オルコットは、表情を変えなかったが、隣に座るセシルの手が、机の上でわずかに震えるのが見えた。彼はその手に、自分の手を重ねた。冷たかった。彼女の体温は、いつもより低いように感じられた。

「――具体的な計画は」

「詳細はまだ不明です。ただ、彼はこの二人を『裏切りの象徴』として扱い、公開の場で断罪することを望んでいるという情報もあります」

「――俺たちが、見せしめにされる、ということか」

「その可能性が高いです」

灰域を挟んだ因縁は、これまで国家対国家の抽象的な対立として進んできた。艦隊と艦隊、政府と政府、組織と組織。だが今、それは初めて、個人的な標的として、二人の元へ牙を剥こうとしていた。オルコットは、窓の外の暗闇に視線を移した。そこには何も見えなかったが、見えない場所から、確実に何かが自分たちに向かって歩みを進めている気配があった。彼は、自分がこれまで艦長として指揮してきた、艦対艦の戦闘とは異なる種類の恐怖を、初めて明確に自覚した。撃ち合う敵は、まだわかりやすい。だが、名前も顔も見えないまま迫ってくる殺意には、備え方すらわからなかった。

「――セシル」

「はい」

「これから、これまで以上に用心する必要がある。だが、俺は、あなたを一人にはしない」

セシルは、震える手を、オルコットの手に強く握り返した。

「――わかっています。信じています」

その言葉が、彼にとって、これから続く長い緊張の日々を支える、最初の錨になった。

翌朝、艦橋に上がったオルコットを、副長のダーナが待ち構えていた。彼女の表情は、いつもの実務的な硬さの奥に、隠しきれない不安を滲ませていた。

「――艦長、昨夜の件、聞きました」

「早耳だな」

「参謀部から、護衛態勢の見直しについて、非公式に打診がありました。艦長とマーロウ技術顧問、双方の身辺警護を強化するようにと」

オルコットは、艦橋の窓から見える灰域の淡い光を眺めた。かつて哨戒任務でこの光を見ていた頃、彼はまだ、自分の身がこれほど政治の道具として扱われる日が来るとは想像していなかった。国家という巨大な機構は、時に個人の生死さえも、駒の配置のひとつとして扱う。ヴィスの粛清も、自分たちへの標的化も、その意味では同じ構造の上に成り立っていた。

「――ダーナ、乗員たちには、どこまで伝わっている」

「詳細は伏せていますが、緊張感は共有しています。イズマ機関長などは、機関区画の警備を、勝手に一段階引き上げたようです」

「勝手に、か」

「艦長を守るためなら、命令を待たない連中ですから」

オルコットは、わずかに口元を緩めた。乾いた笑いだったが、それでも、彼にとっては久しぶりの安らぎだった。艦という小さな社会が、外の巨大な政治力学に飲み込まれまいと、静かに、しかし確実に、身構え始めている。その事実だけが、今の彼にとって、数少ない慰めだった。

「――ヴィスの局長就任、そしてこの標的化。俺たちは、これから、これまでとは違う種類の戦争に足を踏み入れることになる」

彼は、誰に言うともなく呟いた。艦を撃ち合う戦争であれば、彼は十分に場数を踏んできた。だが、名も見えぬ暗殺者や、政治的な断罪を目的とした追跡には、艦長としての経験だけでは太刀打ちできない。灰域に浮かぶ《薄明》の艦橋で、オルコットは、これから始まる長い緊張の日々を、静かに、しかし確実に覚悟し始めていた。

その日の午後、彼はセシルとともに、ハイド・ステーションの資料室に足を運んだ。連邦側の人事発令や粛清の対象者リストの断片を、少しでも整理しておく必要があった。窓のない資料室には、古い記録媒体の匂いが染みついていた。

「――ヴィスという男を、どう見ている」

オルコットが尋ねると、セシルは、しばらく考えてから答えた。

「彼は、優秀な軍人です。ただし、その優秀さは、戦術眼ではなく、組織の中でどう振る舞えば生き残れるかを見極める嗅覚に発揮されるものです。ハルシオンでの敗北を、彼は恐らく、最初から自分の失点にはしないと決めていたはずです」

「――負けても、負けを負けとして受け取らない、ということか」

「はい。彼は、戦場での勝敗よりも、戦場の外での物語を重視する人です。だからこそ、私や、鍵の奪取に関わった者たちを『裏切り者』として断罪する物語は、彼にとって、敗北を覆い隠す何よりの道具になります」

オルコットは、資料室の薄暗い照明の下で、彼女の横顔を見つめた。連邦の内側にいた人間だからこそ見える、権力構造の歪みが、そこにはあった。彼女の分析は、単なる推測ではなく、実際にその組織の中で生きてきた者の実感に裏打ちされていた。

「――あなたは、よく耐えてきたな。そんな組織の中で」

「耐えていたわけではありません。ただ、気づかないふりをしていただけです。あなたに出会って、枷の設計図の向こう側にいる人々の顔を、初めて具体的に想像するようになりました。それからは、気づかないふりが、できなくなりました」

その言葉に、オルコットは何も返せなかった。ただ、彼女の肩にそっと手を置いた。資料室の外では、ステーションの通路を行き交う人々の足音が、遠く、断続的に響いていた。灰域の向こうから迫りつつある影は、まだ、その足音ほど明確な形を持っていなかった。だが、確実に、こちらへと近づいてきていた。

(第72話へ続く)