戦争開始から数ヶ月が過ぎた頃、オルコットは、対無人艦戦術研究部門の任務の傍ら、これまでの経緯を、私的な記録として書き残すことを決めた。誰に読ませるためでもない、ただ自分自身のための記録だった。
その夜、艦長室の机に向かい、彼はしばらくの間、端末を開いたまま、何も書けずにいた。この一年余りで起きたことのすべてを、どこから、どんな言葉で書き起こせばいいのか、彼自身、うまく整理がついていなかった。窓の外には、いつもと変わらぬ灰域の暗闇が広がっている。彼は、その暗闇を一度だけ見つめ、それから、ゆっくりとキーを叩き始めた。
なぜ、こんな記録を残そうと思ったのか、彼自身にも、はっきりとした理由はわからなかった。誰かに読ませるためではない。上層部への報告でもなければ、後世への遺言でもない。ただ、これほど多くのものを失いながら進んできたこの道のりを、自分自身の言葉で、一度きちんと書き留めておかなければ、自分という人間が、この先も真っ直ぐに歩き続けられないような、そんな予感があった。記憶は、時間と共に薄れていく。だが、文字として残された言葉は、たとえ誰の目にも触れなくとも、確かにそこに在り続ける。
対無人艦戦術研究部門の日々の業務では、彼は絶えず、数字と向き合っていた。撃破数、損耗率、投入コスト――そういった無機質な指標の裏側に、必ず、名前を持った誰かの生と死があることを、彼は決して忘れないようにしていた。だが、報告書という形式は、その一人一人の物語を掬い上げるようには、できていない。だからこそ、彼はこの夜、報告書とは別の場所に、自分だけの言葉で、この戦争の本当の姿を、書き留めておきたいと思ったのだった。
端末の空白の画面を前に、彼は、これまでの日々を、順を追って思い返した。辺境哨戒の平穏な日々、ケイオン第七集落での惨状、ラスクとの出会い、セシルとの出会い、デルフォス地下要塞への強襲、そして鎮魂会への引き渡し――そのすべてが、一本の線のように繋がっていることに、彼は改めて気づかされた。どの一つが欠けても、今この瞬間の彼は、存在しなかっただろう。
『――なぜ、この戦争は始まったのか。
発端は、連邦が極秘に進めていた自律核実弾試験の事故と、その隠蔽にあった。三年前、ケイオン第七集落で340名の民間人が犠牲になったあの事件を、連邦は最後まで公にしなかった。俺自身、あの事故の現場に偶然居合わせ、瓦礫の下から運び出される名もなき遺体の列を、この目で見た。あの日見た光景は、今でも、目を閉じれば鮮明に蘇る。連邦の記録には、あの事故は「輸送船の事故」として、簡潔に、そして虚偽の形で処理されている。340人の命が、たった数行の虚偽の報告書に置き換えられた。それが、俺がこの道を歩み始めた、すべての始まりだった。
その隠蔽の延長線上で、連邦は自律無人艦の本格配備計画を推し進めた。人員損耗を厭わず、国家が生殺与奪の力を独占しようとする、その動きに対抗するため、我々同盟は、認証標準に組み込まれた正規管制鍵――国家のいずれにも属さない、最後の安全弁を、連邦から奪い、中立の宗教組織である鎮魂会へと託した。
この行為そのものは、成功した。鍵は今も、どちらの国家の手にも渡らず、静かに守られている。だが、その成功の裏側で、俺は多くのものを失った。共に鍵を奪いに動いた仲間、そして――セシル。彼女の死は、この記録の中に、決して数字としては書き残さない。彼女は、セシル・マーロウという、一人の人間として、俺の記憶の中に残り続ける。
だが、鍵を奪ったという「行為」は、両国の疑心暗鬼を、決定的に深めることになった。連邦は、その真の理由を隠したまま、我々を一方的な侵略者として国民に説明し、報復と隠蔽の連鎖を生み出した。レティシアへの非正規侵攻、狙撃事件、ハルシオン侵攻、ノクターン攻防戦――積み重なる暴力の連鎖が、双方の軍拡を加速させ、ついには誰にも止められない、全面戦争へと帰結した。
つまり、この戦争は、一つの隠蔽から始まり、その隠蔽を暴かれることを恐れた国家の自己保身が、報復と軍拡の連鎖を経て、必然として辿り着いた結末である。誰か一人の悪意が引き起こしたものではない。むしろ、誰もが、自らの立場において「正しい」と信じる選択を積み重ねた結果として、この惨状が生まれた。それこそが、この戦争の、最も恐ろしい本質なのかもしれない。
鍵を託すという判断が正しかったのかどうか、俺にはまだわからない。だが、あの日、鍵を国家の外へ出さなければ、この戦争は、もっと早く、もっと一方的な形で、より大きな悲劇を生んでいたかもしれない――そう信じることだけが、今の俺にできる、唯一の慰めだ』
オルコットは、そこまで書き終えると、一度、深く息を吐いた。指先が、微かに震えていた。この記録を書くことは、彼にとって、これまでの日々を、もう一度、一つ一つ辿り直す作業でもあった。ケイオン第七集落の事故現場の光景、ラスクとの最初の出会い、デルフォス地下要塞への強襲、そして――セシルとの、あの短くも濃密な日々。そのすべてが、この記録の行間に、静かに刻み込まれていた。
書きながら、彼は幾度も、手を止めた。特に、セシルの名を記した箇所では、しばらくの間、画面を見つめたまま、動けなくなった。彼女の死を、この記録の中でどう扱うべきか、彼は最後まで迷い続けた。彼女の犠牲を、戦争の必然性を説明するための一材料として扱うことは、どうしてもできなかった。だからこそ、彼はあえて、その死の詳細を、この経緯の記録からは切り離した。彼女は、統計でも、教訓でもなく、ただ、セシル・マーロウという一人の人間として、記憶されるべきだと、彼は強く思っていた。
窓の外から、時折、遠い砲撃の光が、微かに差し込んでは消えていった。艦は今、次の任務地へ向けて航行している最中だった。エンジンの低い駆動音だけが、艦長室に規則的に響いている。オルコットは、その音を聞きながら、自分の言葉が、この巨大で無機質な戦争機構の中で、どれほど小さな存在であるかを、改めて実感していた。それでも、彼はキーを叩く手を止めなかった。小さくとも、確かな記録を残すことに、意味があると信じていたからだった。
机の上には、彼が愛用している旧式の万年筆が、一本、置かれていた。端末での記録が主流となった今も、彼は、公式な報告書以外の私的なメモには、時折この万年筆を使うことがあった。だが、この夜だけは、その万年筆に手を伸ばすことはなかった。この記録は、紙に残すには、あまりにも危うい内容だった。誰かの目に触れる可能性がある限り、それは端末の奥深くに、暗号化された形で眠らせておくしかなかった。
彼は、しばらくの間、画面に映る自分の書いた文章を、読み返した。誰にも読ませるつもりのない記録だったが、それでも、この言葉を残しておくことには、意味があると彼は感じていた。いつか、遠い未来に、この戦争がどのようにして始まったのかを、誰かが問い直す日が来るかもしれない。その時、自分のこの記録が、たとえ誰の目にも触れることがなかったとしても、少なくとも一人の人間が、この真実を、その心に留めていたという事実だけは、残る。
艦の外壁を、微かに、何かの破片が擦る音が響いた。灰域を漂う無数の残骸の一つが、艦体をかすめたのだろう。オルコットは、その音に一瞬だけ意識を向け、それから、再び端末の画面へと視線を戻した。こんな些細な物音にすら、神経を尖らせてしまう自分に、彼は苦笑を浮かべた。この一年で、彼の中に染み付いた、戦時下の習性だった。
両国の公式な歴史書には、この経緯が正しく記されることは、恐らくないだろう。連邦は、隠蔽の事実を認めることを、これからも決してしないはずだ。同盟もまた、鍵の奪取という行為を、正義の行動としてしか語らないだろう。だが、真実は、どちらの美化された物語とも異なる場所に、静かに横たわっている。誰も悪意だけで動いたわけではなく、それでいて、誰もが正しかったわけでもない。その曖昧さこそが、この戦争の真の姿なのだと、オルコットは思っていた。
窓の外、灰域には、なおも絶えることのない戦火が広がっていた。遠くに見える閃光の一つ一つが、また新たな死者を生み出しているのだろう。オルコットは、その光を見つめながら、自分が書き残したこの記録の重みを、改めて噛みしめていた。
端末の時刻表示は、既に深夜を大きく回っていた。艦内の大半の乗員は、既に眠りについている時間だった。オルコットは、静まり返った艦の中で、自分一人だけが、この重い記録と向き合っているという事実に、奇妙な孤独感を覚えた。だが、それは決して、悪い孤独ではなかった。むしろ、この静けさの中でしか、こうした言葉を紡ぐことはできないのだろうと、彼は思っていた。
彼は、この端末に記した記録を、暗号化した上で、艦の個人区画の奥深くに保存した。誰かに見せるためではなく、ただ、自分自身が、この真実を忘れないための、いわば錨のようなものだった。この先、どれほど長い年月がこの戦争に費やされようとも、なぜこの戦いが始まったのか、その根本だけは、決して見失いたくないと、彼は強く思っていた。
記録を書き終え、オルコットは静かに端末を閉じた。手のひらに、まだ微かな震えが残っていた。窓の外の暗闇を、彼はもう一度だけ見つめ、それから、椅子から立ち上がった。明日もまた、戦いの日々が続く。だが、少なくとも今夜、彼は、自分がこれまで歩んできた道の意味を、確かに一つ、言葉として刻み込むことができた。この夜、彼が書き記した言葉は、誰にも語られることのないまま、彼自身の胸の奥深くに、そしてこの端末の中に、静かに刻まれ続けることになる。
(第99話へ続く)