第078話 最後の一滴
旗艦は、まっすぐには来なかった。
まっすぐ来る男ではないことを、この艦の操舵手だけが、骨の髄から知っていた。
「敵旗艦、増速。針路、本艦正対——見せかけだ」ヴェインが言った。「三十秒以内に右へ振る。振ったように見える。実際は推力を抜いて、艦首だけ振って、腹の砲をこっちの未来位置に合わせる。……教えたとおりなら、な」
「教えたとおりに、来るか」
「来る。あいつの手札で、まだ生きてるのはそれだけだ」
残燃料の試算が、戦術図の隅で冷たく光っていた。敵旗艦、推定残量——全力機動、あと一回ぶん。
最後の一滴だった。
その一滴を、どこで使わせるか。それがこの操艦戦のすべてだった。
「撃たんでくれ」と、ヴェインは言っていた。戦闘前のブリーフィングで、一度だけ。「機関を潰せば終わる。中の人間は死なん。……読み切ってみせる。だから、杭も、艦体への砲撃も、待ってくれ」
撃ち合えば負ける艦が、撃たない約束で、回廊最強の海賊旗艦と向き合う。理屈の上では正気ではなかった。理屈の外では、これ以外の形がなかった。
三十秒目。旗艦が、右へ振った。
振ったように、見えた。
ヴェインの手は、その嘘に付き合わなかった。《送り火》は敵の「見せた右」を無視して、本当の重心の直進線から、静かに身を外した。旗艦の腹の砲が、艦のいない場所を薙いだ。
「……一手目、空振り」
旗艦が機動を立て直す。二手目。今度は本当に右へ——いや、推力の抜きが半拍浅い。本気の右だ。ヴェインは追わない。追えば、三手目の罠の射界に入る。教えた側は、教えた手の三手先まで知っている。
「焦れてきとる」と操舵手は言った。「燃料計を見ながら舵を切る人間の癖だ。……ガズ。お前、操舵まで自分でやっとるな。人が、足りんのか」
誰も答えられない問いだった。答えは、旗艦の乗員名簿の中にしかない。
三手目。四手目。骨市の墓標の間を、二隻の艦が無言で読み合いながら旋回する。砲撃は、双方ほとんどなかった。これは砲戦ではなかった。七年ぶりの、教練だった。世界で一番高くついて、一番誰も死なせたくない教練だった。
五手目で、ガズは全てを賭けた。
最後の一滴を燃やす、全力の突進。読み合いを捨て、質量と速度で《送り火》の機動半径の内側へ押し込む——砲術屋の、距離を殺す踏み込みだった。回避は間に合わない。回避すれば、回避した先に砲が来る。
ヴェインは、回避しなかった。
艦首を敵に正対させたまま、《送り火》は静止に近い微速で、突進を真正面から「待った」。
「……息継ぎだ」
操舵手が、低く言った。
「全力噴射は、十一秒で一度、推力が揺れる。機関の呼吸だ。グロムの機関は、十一秒だった。……お前の艦も、同じ型だろう」
十一秒目。
突進の噴射が、ほんのわずかに、揺れた。
「——今」
光条が一条、最小出力で、過たず旗艦の機関区だけを焼いた。
推力が死んだ。最後の一滴は、宇宙に散った。旗艦は突進の慣性のまま、《送り火》の脇を、もう二度と曲がれない直線で流れていった。武装は生きている。艦も人も無傷だ。ただ、もう、どこへも行けない。
撃ち合わずに勝つ艦の、いちばん残酷な勝ち方だった。
ブリッジの計器の灯りの中で、ヴェインは操舵桿から、ゆっくりと手を離した。
手が、わずかに震えていた。三十七時間の操舵でも震えなかった手だった。読み違えれば、教え子たちが死んだ。読み違えなかったから、誰も死ななかった。その差分の重さが、戦闘の終わった手にだけ、遅れて届く。
「……グロムの機関は、十一秒だった」
誰にともなく、彼はもう一度言った。確認のようでも、弔いのようでもあった。七年前に沈んだ艦の機関の呼吸が、今夜、百八十人の命を拾った。
三十秒の沈黙のあと、旗艦から降伏信号が灯った。
移乗収容の手順は、保安機構の規定どおりに進んだ。武装解除、乗員の確認、頭目の身柄拘束。ハルは収容区画で、手錠の前に立つガズ・ヒバスと向き合った。
ガズは手錠を差し出される前に、姿勢を正した。
そして、《送り火》のブリッジに繋がる通信カメラへ向けて——その向こうにいる男へ向けて——七年遅れの敬礼を、ひとつ、した。
「いい舵だった、艦長」
スピーカーの向こうで、ヴェインの声がした。
「……お前を、二度も拾い損ねた」
「二度目は、拾われる側が断ったんだ。勘定が違う」ガズは手錠を受けながら言った。「部下を頼む——とは言わん。言える義理の相手が、もうおらん。だからこれは、ただの情報だ。うちの若いのは、飯にだけは飢えとらん。俺が食わせた。……そこだけは、墓まで持っていく自慢だ」
戦闘終了。
緋蓮団側、戦死四十三名。捕虜三百一名。こちら側、商会武装商船《カリナ》乗員十七名、巡視艦の保安部員一名、戦死。
勝利、と報告書には書かれる。書かれるが、骨市に漂う双方の死者は、七年前に同じ戦争から吐き出された、同じ残骸たちだった。
誰も歓声を上げない艦橋で、ツクモだけが、損害集計を平坦に読み上げ続けていた。読み上げの最後に、彼女は誰に向けてでもなく付け足した。
「集計を、保存します。——全員ぶん」
曳航灯の列が、骨市の墓場をゆっくりと離れていった。