第090話 閑話 配給の升
マーラは毎朝、列の長さで一日を占う。
配給所の鎧戸を開ける前に、通路の奥まで目を走らせる。第三隔壁の柱まで伸びていれば普通の日。その先の消えた照明の下まで折れていれば、悪い日。今朝の列は、柱の手前で止まっていた。二年ぶりに見る短さだった。良いことがあると、まず疑う癖が、二年でちゃんと身についている。
配給の升は、片手で扱える木の箱だ。すり切り一杯で小麦四百グラム、一人一日ぶん。戦争の前、マーラはグラムという単位を、算数の文章題でしか使わなかった。いまは掌が単位を覚えている。升がすり切りで渡せる日は、良い日。升の角を指で払って減らす日は、悪い日。指の払い方を子供に見られないやり方も、二年で覚えた。
戦争の前、マーラは教師だった。
シネレオ港の第二学区で、十一歳から十三歳を教えていた。教えていた科目は算数と、星系地理と、それから「公民」という、いま思えば冗談のような名前の科目だった。統治とは何か。税とは何か。市民の権利とは何か。教科書の章立てどおりに教えて、教科書の章立てどおりには何も起こらなかった。
夫は曳船の機関士だった。二年前の春、分離派が「協力要請」と呼ぶ徴用で、船ごと持っていかれた。最初の半年は便りがあった。いまはない。死んだという報せもない。報せがない、という状態に名前をつけるなら、それは寡婦ではなく、ただの保留だった。
息子は十七だった。一年前の冬、統治府の検問で死んだ。夜間通行の標識灯が切れた作業艇に乗っていて、停船命令に気づかず、警告射撃が警告にならない角度で当たった。統治府は「誤認」と発表し、補償金として三十万crを払い、係官は書類を読み上げる声で「戦時下の不幸な事案」と言った。マーラはその語彙を全部知っていた。公民の教科書の、最後の章に出てくる語彙だった。教えていた頃は、それが自分に読み上げられる日が来るとは思っていなかった。
三十万crは、手をつけずにある。使い道を決める、ということが、あの子の死を経理してしまうことのように思えて、二度と開けない口座に入れたままだ。経理できない数字を抱えて生きている人間が、この港には、列の人数ぶんいる。
夫は分離派に取られ、息子は統治府に殺された。だからマーラには、応援する旗がない。旗のない人間は、列に並ぶ。列に並び、配るのが性に合っていると気づいてからは、配る側に立った。配給所の手当は日に三千八百cr。教師の半分以下で、倍ほど役に立っている実感だけがある。
配給所には、教え子がよく来る。
来るたびに、数える。第二学区の最後の組は二十六人いた。確認できる生き残りは、今朝の時点で十九人。徴用が三人、流れ弾が二人、避難船で出たまま消息のないのが二人。十九、という数字を、マーラは誰にも言わない。数えるのをやめることも、しない。教師の仕事は出席を取ることだと、いまでも思っている。出席簿が焼けたなら、頭の中で取ればいい。
今朝の列には、十九人のうちの一人がいた。算数の得意だった子で、いまは十四歳になり、桟橋で荷札の書き換えの手伝いをして暮らしている。升を受け取るとき、その子は声を低くして言った。
「せんせい、こんどの小麦、等級が上がったよ。粉にしたとき、灰色が薄い」
「よく見てるね」
「荷札の仕事だからね。……これ、軍納用の等級だよ。なんで配給に流れてるんだろ」
いい問いだった。教室なら、いい問いです、と板書する。配給所では、答えの代わりに升をすり切りにする。
生き残りの子供たちは、新しい遊びを覚えた。
港の観測ドームから戦況がよく見えた週に、流行りはじめた遊びだ。どっちの艦が沈むか、配給の菓子を賭ける。統治府のフリゲートに二つ、分離派の改装船に一つ。沈んだ艦から脱出艇が出ると「無効」になる、というのが子供たちの決めたルールで、マーラはその一条にだけ、わずかな救いを見ている。死人が出ると賭けが流れる遊びを、子供たちは自分で設計した。誰もそう教えていないのに。
叱るべきなのだろう。教師なら叱った。配給係は、叱らない。賭けの胴元の少年が、勝った菓子を負けた子に半分返しているのを、見てしまったからだ。
列の噂は、配給の品より速く回る。
この頃の噂は、黒い艦の話ばかりだった。
「葬儀屋が来てから、避難船が一隻も襲われてないんだ」と、列の前の方の老人は言う。「うちの孫の船団も、無事に抜けた。検問も機雷もある航路を、十二隻、ひとつも欠けずにだ。あれは守り神の類いだよ」
「あれは死神だね」と、列の後ろの方の女は言う。「沈んだ艦の数で稼ぐ商売だ。賞金で骨を数える男だって。フリゲートの三十九人が死んだ戦さでも、あの艦だけ無傷で、加算金を取ったそうじゃないか」
「死神だろうが守り神だろうが」と、列の中ほどの男が両方に言った。「配給が増えた週に悪く言う筋合いは、俺にはないね」
実利の声が、いちばん大きくはならず、いちばん長く残る。辺境の世論というものを、マーラは配給の列で学び直している。
先週は、白い袈裟の托鉢僧が列の脇に立って、あれは魂を喰う機械の艦だ、と説いて回った。喜捨の椀は、ほとんど鳴らなかった。魂の話は、腹の膨れない話だからだ。僧は三日で別の港へ移っていき、列は残った。列は、いつも残る。
守り神と死神が、同じ列の中で、同じ配給を待っている。マーラはどちらにも頷かない。判断は保留している。保留は、彼女のいちばん得意な科目になった。
ただ、今朝の配給の箱のことは、気づいている。
小麦と医薬品の木箱に、分離派の輸送票が貼られたままだった。剥がし忘れだ。発送元は分離派支配域の集積所、宛先は別の入植地。それがなぜか正規の検認印と「人道配分」の伝票を着けて、こちらの配給所に積まれている。誰かが、どこかで船を停めて、積荷の行き先を書き換えた。書き換えた誰かは、伝票を正確に揃える事務の手を持っている。
受領台帳の入庫欄には「人道配分・二百十六箱」とあり、検認印は保安機構のものだった。略奪なら、台帳は来ない。横流しなら、印は来ない。両方揃って、なお出どころを誰も口にしない荷というのは——つまり、口にしない方がいい種類の善意ということだ。
略奪品なら、伝票は来ない。マーラは輸送票を静かに剥がし、小麦を升で量り、列の先頭に最初の一杯を渡した。今朝の列が短いのは、配給が増えたからだ。増えた理由を、港の誰も正確には知らない。
夜、第四区画が停電した。
二年前なら騒ぎになった。いまは子供たちが観測ドームに集まる合図でしかない。港の照明が落ちると、ドームの天蓋いっぱいに、本物の星が出る。
マーラも行く。教え子たちが、星を数えているからだ。
「せんせい、動かない星と、動く星があるんだよ」と、いちばん年下の子が言う。「動かないのが本物の星。動くのは、船」
「よく覚えたね」
子供たちは手分けして空を区画に割り、区画ごとに係を決めて数えていた。出席を取る、と彼らはそれを呼んだ。マーラの教室の語彙だった。教えたことの大半は戦争に焼かれたが、出席を取る、だけは生き延びて、夜空に転用されている。
「それでね、動く星、ふえてるんだ。きのうより、三つ」
マーラは天蓋を見上げた。
子供の言うとおりだった。港の出入りの船とは違う高度に、暗い光点がゆっくり流れている。三つどころではない。教師の目は、数えるためにある。七つ。いや、九つ。昨夜まで、あの領域に光点は六つだった。
漂流物だろうか。残骸の海から流れてきたデブリが、戒厳で照らされなくなった空に見えているだけ——そう思おうとして、思えなかった。
算数と星系地理を教えていた目が、気づいてしまった。
ばらばらに流れていない。九つの光点は等間隔を保ち、同じ角速度で、同じ針路を進んでいる。デブリは、間隔を守らない。
「せんせい、あれ、どっちの船?」と、係の子が訊いた。統治府か、分離派か、という意味だ。この港の子供は、空の光を、まずその二択で分類する。
マーラは答えられなかった。どちらの艦隊も、あんなに静かには飛ばない。軍の編隊は灯火と信号で喋りながら飛ぶ。あの九つは、何も喋っていなかった。喋らないまま、揃っていた。
あれは、編隊を組んでいる。